アメリカで痛感した〈観察する〉ことのポテンシャル
2022年06月13日
考えることと悩むことは似ている。
もしかしたら「どこが違うのだ?」と聞き返されるかもしれない。誰かが悩んでいるのだとしたら、それはすなわち、その人物が「考えている」ということなのではないか? と。
けれども、いっぽうで「考えても考えてもしかたがないことを、やっぱり考えてしまうことを『悩む』と言うのだ」とも説明しうる。だとしたら、考えたならばそこそこは対応できるような事柄について思いわずらうことを〈考える〉と呼び、そうではない事柄に思いわずらわされることを〈悩む〉というのだ、とも説きうる。
この定義をもうちょっと押しひろげたい。
私たちは、自分自身で結論を出せる(かもしれない)問題については〈考える〉という行為をするのだけれども、どうしたって自分自身では結論に至れない(ように見える)問題を前にすると〈悩む〉のだ、と。
たとえば新型コロナウイルスのこのパンデミック。2020年の3月11日に、WHO(世界保健機関)はこれをパンデミックであると宣言したのだけれども、その頃から私たちはずっと悩みつづけている。
私たち一般人には、ウイルス学についての十分な知識もなければ、医療の世界の知見というのも乏しい、そして都市単位でロックダウンするとかしないとか、頭では〈考える〉ことはできても実行するためには政治的な力が必要なので、それがないから考えてもしかたがない結果となってしまい、とどのつまり〈悩む〉ことになる。
要するに2020年からこの方、私たち(この「私たち」には地球上のほとんどの人間が含まれる)はずっと、これから仕事はどうなるんだろうとか、ワクチンはいつ打てるんだろうとか、そもそも今日や明日、どうしたらいんだろうと考えつづけてきたのだけれども、そういう思考はことごとく、単に「思考というよりも『悩み』だった」のだ、と言い切れてしまう。そして、だからこそ、かなり多くの人たちが精神的に参ってしまったのだな……とも推し量れる。
ところで、私たちは〈考える〉ことと〈悩む〉ことがこんなにもゴチャッとなってしまったパンデミックの時代に、考えてもしかたがないことに結論を出すために〈観察する〉という行為にしばしば熱をあげた。
たとえば、今年の5月20日に、日本政府はマスク着用に関して新たな見解を示し、「屋外で、人との十分な距離がとれていれば、マスクを着ける必要はない」と説明したのだけれど、その条件を満たした人びとがこの日以来みなマスクを外したかといえば、1週間、10日と過ぎてもそうはなっていない。
何をしているのかと言えば、「他の人はどうするんだろう?」「みんなはどんな態度を取るのだろう?」と周囲をうかがっている。
そうなのだ。私たちはしょっちゅう、観察をしている。それがパンデミックの時代に突入してから顕著になった集団的行動だ。
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