メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

「沖縄を返せ」~政治情勢につれて変容した歌があぶり出す沖縄問題の核心 後編

【49】「身を捨つるほどの祖国はありや」というウチナーからヤマトへの反問歌

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

「沖縄を返せ」1956年
 作詞 全司法福岡高裁支部、作曲 荒木栄

 前稿「『沖縄を返せ』~政治情勢につれて変容した歌があぶり出す沖縄問題の核心 前編」に引き続き、「沖縄を返せ」について書く。

 6月23日、沖縄は沖縄戦の犠牲者を悼む「慰霊の日」を迎えた。50年前、その沖縄の本土復帰が焦点となっていた頃、集会やデモでさかんに歌われていた「沖縄を返せ」は、沖縄が本土に復帰した1972(昭和47)年の後、しばらく歌われなくなる。

 ところが、1990年代から2000年代にかけ、歌詞の一部が二度にわたって変えられて、ふたたび歌われるようになった。なぜ歌詞の一部は変えられたのか? そこにはどんな意図が込められていたのか?

 後編では、「沖縄を返せ」がたどった数奇な有為転変について考えてみたい。

 ちなみに、「沖縄を返せ」の当初の歌詞は以下の通りだ。

♪固き土を破りて 民族の怒りに燃える島 沖縄よ
我らと我らの祖先が 血と汗をもて 守り育てた 沖縄よ
われらは叫ぶ 沖縄よ われらのものだ(沖縄は)
沖縄を返せ 沖縄を返せ

沖縄祖国復帰協議会〔復帰協)主催の復帰要求県民総決起大会後、「核付(つき)返還反対」などのプラカードを掲げ、提灯行列をする参加者。皆で「沖縄を返せ」を唱和した=1968年4月28日、那覇市寄宮(現・寄宮1丁目)の与儀公園近く

替え歌の仕掛け人、八重山民謡歌手・大工哲弘

 前編で述べたように、「沖縄を返せ」は1970年12月、米軍MPの交通事故処理に端を発して起きたコザ「暴動」を機に、沖縄人の“愛唱歌”から“裏切りの歌”へと変容。それ以降、歌われなくなった。

 反米運動といわれるコザ「暴動」だが、その根底には沖縄をアメリカに売り渡した「祖国」への不信と疑念があった。復帰を願った「祖国」に裏切られたと知ったとき、沖縄人から「沖縄を返せ」を歌う気が失せたのである。

 そもそも「沖縄は日本のもの」だから、「日本へ返せ」というのは、本土の住民たちにビルトインされた安直な「ナショナリズム」だ。本来なら本土の住人がこれに気づくべきなのだが、その気配はさっぱりなかった。

 ところが、そのことを嫌でも気づかされる“事件”がおきた。“裏切りの歌”へと変容して以来、沖縄では誰の口にものぼらなくなったこの歌が、忽然として甦ったのである。

 その事件がおきたのは、「復帰」から20年後の1994年。仕掛け人は、八重山民謡歌手の大工哲弘だ。大工は、「沖縄を返せ」の最後の決め台詞である「♪沖縄を返せ 沖縄を返せ」「♪沖縄を返せ 沖縄へ返せ」に替え、軽みのあるジンタのリズムに乗せて、ひょうひょうと歌ってみせた。

小波を大波に転じた筑紫哲也

 それは当初、沖縄古民謡界に小波を起こした程度にすぎなかった。だが、小波を大波へと変じた助っ人が本土からやってくる。TBSの「ニュース23」のキャスターをつとめていた筑紫哲也である。

 大工が応じたいくつかのインタビューによると、その経緯は以下のとおりであった。

 大工が「沖縄を返せ」をカバーした翌年の1995年、戦後50年のトークイベントが、筑紫哲也をコーディネーターに迎えて那覇市民会館で開かれた。そこで、大工が「替え歌バージョン」を歌うと、立ち見を入れて2000人の聴衆の半分が大合唱。残り半分は若者で、何の歌か分からないながら、手拍子でこれに和した。大工はこう思ったという。

三線を手にした大工哲弘さん=2013年2月20日、松本滋さん提供
 「60年代後半から70年代にかけて、『沖縄を返せ』ほど歌われた歌はない。でも沖縄が復帰したら、ゴミ箱に捨てられたように誰も歌わなくなってしまった。しかもあたかも沖縄が復帰して平和であるかのように」

 「若い世代の人たちはこの歌を知らない、ショックだった。ウチナーンチュの想いをつなげ、そして歴史をつなげるためにもう一度この歌を歌いたい」

 興味深いのは、大工の動機に、コザ「暴動」が深く関わっていることだ。大工はこう語っている。

 「沖縄らしい活力をいちばん持っていた時代で、Aサインバーの前は毎日のように米兵と取っ組み合いの喧嘩が起きていました。人にパワーがあふれていたんですよね。この頃の沖縄を知っているということは、ある意味幸せ。沖縄だけに留まらず、日本中が復帰前の生き生きとしたパワーを取り戻してくれたら、世の中が変わるかもしれない」
<沖縄音楽旅行 Vol.02>大工哲弘氏インタビュー | 沖縄LOVEweb 

 その後、大工は本土へ出向いて、筑紫の「ニュース23」に生出演。「沖縄『を』返せ」を「沖縄『へ』返せ」と変えて歌ったのも、同じ思いからだったという。

「少女暴行事件」への抗議集会で歌われて

 折しも、この年の9月、アメリカ海兵隊員による「少女暴行事件」が発生した。県民の1割ちかくの8万5千人が怒りの声を上げた抗議集会では、大工が「沖縄を沖縄へ返せ」と変えたフレーズが高らかに歌われ、若い世代の心をもつかんだ。

米兵の暴行事件に抗議する県民総決起大会の会場をぎっしりと埋めた参加者=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園、本社ヘリから

 その申し子ともいえる証言者がいる。「復帰」5年後の1977年沖縄生れで、沖縄テレビの看板キャスターの平良いずみである。平良はメディアに興味をもったきっかけをこう述べている。

 「1995年に沖縄海兵隊員が起こした少女暴行事件を取り上げたTBSの『ニュース23』でキャスターの筑紫哲也さんがネーネーズの『黄金の花』をエンディングテーマに使ったり、大工哲弘さんが『沖縄を返せ 沖縄を返せ』という歌詞を『沖縄を返せ 沖縄へ返せ』と替えて歌ったことを取り上げたりしていて『テレビってすごい。くだいて説明してくれるので考えるきっかけを与えてくれた』と思ったんです」(沖縄テレビのホームページ2020年3月24日より)

史上最悪の「公約違反」だった「本土並み核抜き返還」

 大工の「替え歌バージョン」が本土へ伝えられた契機も、筑紫哲也の「ニュース23」であった。私自身は、この番組をみた友人から聞かされて、「替え歌」の存在を知ったと記憶しているが、本土の住人にとって最も痛いところをつかれてたじろいだ。

 大工の「替え歌」のリリースは、沖縄が望んだ「本土並み核抜き返還」がいかに史上最悪の「公約違反」であったかが、明々白々となる時期とちょうど重なっていた。

 本土の米軍基地は次々と返還される代わりに沖縄のそれは残され、気づいてみると、日本の国土の0.6%の南の端の島々に日本の米軍基地の70%超が集中、強姦事件をはじめ米兵による凶悪事件が続発した。さらに、当初は佐藤栄作首相が「核抜き」を公約したにもかかわらず、実際はニクソン米大統領と「緊急事態時には米軍の沖縄への核兵器持ち込みを認める」との密約が交わされていたことも暴露された。

 大工の「替え歌」は、これだけの圧倒的ファクトを前に、「それでも(日本に)沖縄を返せ」は正しかったのかと問いかけていた。
「本土は沖縄を犠牲にしてぬくぬくと平和を謳歌してきたではないか」
「それを許してしまった責任は本土のすべての住人にある」
「いまやお前たちの約束違反は明らかなのだから、すべてを反故にして、沖縄を(日本ではなく)沖縄へ返せ」
と迫ったのである。

 沖縄の本土「返還」に際し、本土の人が「沖縄を返せ」を歌ったり、歌わなかったりした事情は、前稿「『沖縄を返せ』~政治情勢につれて変容した歌があぶり出す沖縄問題の核心 前編」で触れたが、この大工の問いかけに対して、本土の人の「平和な沖縄を返せという気持ちをこめてこの歌を歌ったのだ」、あるいは「沖縄を日本に返してもろくなことはないと分かっていたから、それを歌わないことで連帯したのだ」といった言い訳は、端から聞いてもらえそうにない。

 大工哲弘によるたった一字の「歌い換え」には、それほどのインパクトがあったのだ。

米兵の暴行事件に抗議する県民総決起大会で、沖縄の言葉で「ニジティン  ニジララン(もうこれ以上我慢できない)」と書かれたプラカードなどを掲げる参加者たち=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園

「沖縄のものは沖縄に返すのが当然」だが……

 かつて「革新勢力」の一員として、「沖縄を返せ」を歌った人たちにも、大工の替え歌が深く鋭く刺さったらしく、当時の新聞には、かつて本土で沖縄”返還”闘争にかかわった、ある教員(52歳)による自戒の投書が寄せられている。(朝日新聞1996年5月14日朝刊)

 この二十年の間に沖縄がどのようであったのか、私たちは深い関心を寄せることがなかった。日本中が開発に明け、バブルに踊り、「しあわせ競争」に走った。ふるさとの田畑、山野に思いをはせることもなく、隣の人の孤独に思いやることもなかった。そうしたとき、沖縄から強い怒りの声があがった。その県民集会で、あの歌が歌われていた。聞いていて、はっと胸を突かれた。

 歌詞の最後が一文字違うのである。

 沖縄を返せ 沖縄を返せ と、私たちは歌った。

 しかし、沖縄県民は、沖縄を返せ 沖縄へ返せ と歌うのである。

 そうなのだ。沖縄のものは沖縄に返すのが当然なのだ。日本に返ったのだから、日本政府の思うがままでよいのではない。本土側の人間の都合をおしつけられてよいものではない。

 先日も東京での集会では私たちは「を」と歌っていた。沖縄からの歌声に、深く恥じるものがあった。

 ここで注目すべきは、最後の「先日も東京での集会では私たちは『を』と歌っていた」のくだりであろう。はからずも、「復帰」から20年以上をへても、本土では「沖縄からの歌声に深く恥じる」のはごくごく少数で、沖縄の怒りの炎は本土では小火(ボヤ)ていどにしか受け止められていないことを物語っている。

 沖縄の民謡歌手が仕掛け、本土の著名なニュースキャスターがバックアップしても、本土の住人の多くは、聞く耳も歌う口も持たなかったのである。

再リメイクされた「沖縄を返せ」

 沖縄では、米海兵隊員による少女暴行事件で盛り上がりをみせた反基地闘争も、次第に下火になる。背景には、1998年2月ごろから、米軍普天間飛行場の移設問題をめぐり政府と沖縄の構が一層深まり、基地問題に出口が見えない行き詰まり状況があった。大工の替え歌の伝播力も失われていった。

 さらに、バブル崩壊後の不況がますます深刻化、大工は本土のツアーで、沖縄の基地問題に関心を示してくれた聴衆から、「大変なのは沖縄だけではない」と共感がさめていくのを実感する。そこで、21世紀を前に、閉塞状況を打破するため「沖縄を返せ」を再びリメイクしようと思い立った。

 メロディはそのまま、歌詞を以下のように、沖縄本来の自由さや平和を希求する心を前面に出したものに書き換え、タイトルも「沖縄輝け」と改めた。

♪深く 悲しみ 眠らせて
♪光降り 花咲き 燃える島 沖縄よ
♪島唄流れて 人のまこと伝える
♪戦い いらない 沖縄は
♪心をいやせ 沖縄に
♪夢よ遊ベ 沖縄に
♪沖縄輝け 沖縄輝け

「民族の怒り」を「県民の怒り」に変えて

 しかし、沖縄をめぐる内外情勢は、大工が願ったような方向には進まなかった。むしろ逆だった。

 2005年、普天間飛行場の移転先を辺野古沖とすることで日米が基本合意。これをうけ、ジュゴンの生息地でもある「ちゅら(美しい)海」の埋め立てにたいする反対運動がにわかに盛りあがった。そのなかで「沖縄を返せ」が運動のシンボルソングとして復活を果たした。

 当初、歌われたのは、大工の替え歌バージョンだったが、やがてそれに加えて、冒頭の「♪民族の怒りに燃ゆる島」を「♪県民の怒りに燃ゆる島」と変えて歌われるようになった。それを唱導したのは、復帰協解散後、反基地運動をはじめとする沖縄の社会運動をたばねてきた沖縄平和運動センター議長の山城博治である。

・・・ログインして読む
(残り:約4143文字/本文:約8915文字)