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「フジテレビの時代」と『笑っていいとも!』

[6]1980年代テレビにおける熱狂と冷静のあいだ

太田省一 社会学者

 1980年代、テレビは「フジテレビの時代」を迎える。それまで低迷していたフジテレビは、1980年代初頭の爆発的な漫才ブームをきっかけに数々の人気バラエティ番組を生み出し、「軽チャー路線」を掲げて視聴率首位をひた走り続けた。今回は、この文脈のなかに『笑っていいとも!』を置き直し、『オレたちひょうきん族』などと改めて比較してみたい。

『ひょうきん族』が実現した「祭り」

1997年から東京都港区のフジテレビ1980年代、「楽しくなければテレビじゃない」をキャッチコピーに掲げて一世を風靡したフジテレビ。社屋は1997年に新宿区河田町から港区お台場(写真)に移転した

 「フジテレビの時代」とは、漫才ブームをきっかけに、「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチコピーを掲げたフジテレビがテレビ局間の視聴率競争でトップを走り続けた時代を指す。1982年、いわゆる「視聴率三冠王」(ゴールデン、プライム、全日の3つの時間帯すべてで世帯視聴率トップになること)になったフジテレビは、それから実に12年連続で首位の座を守り続けた(その背景には、フジテレビの思い切った改革もあったのだが、ここではいったん置いておく)。

 その時代、フジテレビは数多くの人気バラエティ番組を世に送り出した。なかでも『いいとも!』と並んでツートップの一角だったと言えるのが、B&B、ツービート、島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんちなど漫才ブームの立役者が大挙出演した『オレたちひょうきん族』である。放送開始は1981年5月だから、『いいとも!』の1982年10月よりもおよそ1年半早い。

 『ひょうきん族』は、裏番組のドリフターズ『8時だョ!全員集合』(TBSテレビ系、1969年放送開始)と熾烈な視聴率争いを繰り広げたことでも有名だ(当時マスコミは、「土8戦争」と騒ぎ立てた)。笑いへのスタンスも好対照で、入念なリハーサルを繰り返す作り込んだ笑いの『全員集合』に対し、『ひょうきん族』は、演者のその場のノリを重視し、台本や段取りを無視したアドリブの笑いで対抗した。

 アドリブの応酬による笑いは、必然的に熱気をもたらした。たとえば、番組の目玉コーナー「たけちゃんマン」での、たけちゃんマンに扮したビートたけしとブラックデビルなど敵役に扮した明石家さんまのアドリブ合戦は、その最たるものだ。セットで大きな池がつくられていたとする。すると2人は台本に関係なく、どうすれば面白くその池に落ちられるか、芸人のテクニックの限りを尽くして何度もボケを繰り返す。スタッフの響き渡る大きな笑い声に押されるように、2人は、疲労困憊するまでアドリブのボケをやり続ける。

 そこに生まれる熱気は、若者を中心にした視聴者にも大きな高揚感、そして熱狂をもたらした。漫才ブーム以降、単なる観客の立場に甘んじることを良しとせず、笑いの場に主体的に関与する欲求を募らせた若者たちは、テレビの前にいながら、面白ければ笑い、時には画面にツッコむことで笑いの現場に参加している感覚を得るようになった。そうしてテレビは、笑いの関係性を媒介にして、視聴者、ひいては社会をも巻き込む日常的な「祭り」の場と化したのである。

『笑ってる場合ですよ!』の“失敗”、そしてタモリの起用

 同じ「祭り」の場は、1980年10月、『ひょうきん族』の約半年前に始まったバラエティ番組『笑ってる場合ですよ!』においても実現しているはずだった。平日昼12時から1時間の生放送だった同番組にも、総合司会のB&Bを始め、漫才ブームの主役たちがレギュラー出演していた。

 ただ、『笑ってる場合ですよ!』が『ひょうきん族』と違っていたのは、観客を入れた公開生放送だったことである。場所は、前回もふれたように新宿アルタ。そこでも、濃密な「祭り」の場が生まれるはずであった。

 しかし、事態は思わぬ方向へ進む。

 漫才ブームは、お笑い芸人のアイドル化を一方でもたらした。若手芸人が本番で登場すると、観覧席の若い女性たちからすかさず大きな声援が飛ぶ。さらに、自分の好きな芸人の一挙手一投足に注目しているそうした観客は、その芸人がちょっとつまずいたようなとき、つまり芸人が笑わせようとしたわけではないときにも、笑うようになった。

 それもある意味祭りであったとしても、番組プロデューサーの横澤彪にとって、それは意図した「祭り」ではなく、むしろ許しがたいことだった。

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