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「八街事件」1年後の夢想──運転者は自分がなぜ運転するのか問うてほしい

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 2021年6月28日、「八街事件」が起きてから、早1年がすぎた。それは、酒気を帯びた運転者のトラックが、下校中の子どもの列に突っ込み、2人が命を奪われ、1人が重い脳障害を、2人が重傷を負わされた事件である。あまりにも理不尽かつ悲惨な事件だったため、当時、多くの涙をさそった。

事故現場付近の献花台で亡くなった児童の冥福を祈る人=2022年6月28日午後3時40分、千葉県八街市「八街事件」から1年、現場付近の献花台で=2022年6月28日、千葉県八街市

「白ナンバー」トラックの検査義務化

 首相も献花に訪れ、その後全国規模で通学路の安全点検が実施されてきたが、当の八街では、1年たった今でも、「地域の人や市職員が登下校の見守りを続ける」のが現実だという(朝日新聞2022年6月27日付)。

 私は、今日の危険な状況を作り出した事実に責任をもつ車メーカーに対し、20~30兆円に達するその内部留保を、歩道設置のために吐き出させるよう提案したが(「「八街事件」をめぐって~車利用者とメーカーは「社会的費用」を払うべきだ」)、政府には全くその気がないようである。では政府は何をしたのか。

 警察庁は今、「道路交通法の規則改正をし、今年10月からは一部の〔自社の荷物を運ぶ〕白ナンバーの〔飲酒〕検知器検査も義務化する」という(朝日同前)。これは重要な施策であるが、そこに止まる点に違和感を覚える。

 もっと根本的に現状を直視すべきだと私は思う。問題は、酒気帯び運転者が事故を起こしたことというより(もちろんこれ自体は否定できない)、そもそも通学路にさえ膨大な数の車が当たり前のように走っている、という事実である。

これほどの車が本当に必要なのか?

 今、どこを歩こうにも、うんざりするほどの車が次から次へと走って来る。おかげで歩行者にとって、気持ちが安らぐ時はほとんどない。現今では1家に1台どころか、1人1台(時にはそれ以上)と言われるほどに車が保有されているが、そんなに多くの車が本当に必要なのだろうか。私は買い物難民問題を含めた調査のために各地を歩いたが、どこに行こうと一貫して耳にしたのは、「ここでは車がなければ生きていけない」という言葉である。

 本当にそうだろうか。確かに今時の都市計画は車利用を前提にして立案され、また歩いて行ける距離に店らしい店のないいびつな都市が作られてきた。だが北海道で50年もの間──そのうち35年は、だだっ広い上に人口密度の低い道東で暮らしている──、自家用車など使ったことがない私には、たいていの場合、それは言い訳にすぎないように感じられる。

 車によって引き起こされた各種事件に関する報道に接して、常に感ずる疑問はこれである。多くの地域で、子どもたちの歩く道に膨大な数の車が走っているが、自家用車も商用車も、どこまでやむを得ないぎりぎりの理由で運転されているだろうか。

 そして、そもそもこの点を社会的に問わないまま、子どもの安全を論じる世間の姿勢に、私はほとんどめまいがする。「子どもの権利条約」を云々する人たちの間でさえ、まともな問題提起がなされたことはないように思える。実際同条約を重視するある団体で車の話をしたら、全く理解されなかったという経験が私にはある。

一般乗用車の運転さえ管理が必要では

児童の列に突っ込んだ白ナンバーのトラック=2021年6月28日、千葉県八街市児童の列に突っ込んだ白ナンバーのトラック=2021年6月28日、千葉県八街市

 警察庁の対応では、「安全運転管理者」が白ナンバーのトラック等について検知器検査を行うという。

 だがそもそも、一般の乗用車でさえ本来検査が不可欠ではないだろうか。何しろ乗用車は、街中いたるところをひた走っている。しかも、いったん「事故」を起こせば人命を棄損する可能性が高い点において、有償で人や荷物を運ぶ緑ナンバー・白ナンバーのトラック類と何ら変わりはない。この事実を思えば、そもそもモータリゼーションの出発時点において、一般の乗車用にさえ、安全運転管理者を付けることを義務化するべきだった。

 例えば車先進国イギリスでは、

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