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不平等な現実に抗う〈民主主義〉をめぐって

経済・政治・人間……命の軽重を認めないために

古川日出男 小説家

語られない「昨年の今頃は……」

 昨年の今頃は東京オリンピックが開催されていた、という話題を自発的に持ち出す人間が、いまのところ私の周囲にはいない。

 たった1年前の出来事なのだから、これは意外なことだ。と同時に、街頭演説中に元首相が銃撃されて、殺害されるという出来事があって間もないのだから、東京オリンピック(2021年に開催されたのだが「TOKYO2020」の名称のままだったオリンピック)の大騒ぎなど忘れてしまっても当然だ、と言われると、私もどこかで「そうかもしれないな」と納得する。

 そこであえて、どうして昨夏のオリンピックはあれほど騒がれたのだったか? と考えてみる。

 それは2020年夏に開催される予定が、コロナ禍で延期されたためだった。その後に日本国内でも感染爆発が迫り(あれは新型コロナウイルスの第何波だったのだろう?)、無観客開催が決定されたためだった。

 他にもさまざまな要素があったが、どのようなトラブルであっても、その「大もとの原因はパンデミックだった」とまとめて異論が出るとは私には思えない。こうした眼差しをもって、東京オリンピックの延期が決定した2020年3月のことも、安倍晋三元首相が凶弾に倒れた今年、2022年7月のことも、あえて束ねられるような思考をしてみたい。

【2021年7月8日の出来事】東京都に4度目の緊急事態宣言を出すことを決め、記者会見する菅義偉首相(左、当時)と同席した新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長=首相官邸

新型コロナが奪ったものは何か

 オリンピックの延期(ただし無期限延期ではなかった)がまさにそうなのだけれども、新型コロナウイルスが国内外で感染拡大し、これ以降、人類に突きつけられた問いは「予定を立ててよいのか?」だった。

 たとえば私たちは対面で他者に会うことが容易ではなくなった。誰かに会えない、というのは、「人と会う予定を立てられない」ということである。それからまた、映画館に行って映画を観ることが容易ではなくなった。これは「映画を観る予定が立てられない」ということである。外食も同様で、「外食する予定が立てられない」。卒業式も中止になり、入学式も催されず、「学校行事の予定(開催すること・参加すること)が立てられない」。それでも私たちは、どうにか予定を立てようとして、そのつど落胆した。

 落胆だけではなかった。絶望し、絶叫し、号泣した人たちもいる。たとえば身近な人が新型コロナウイルスに感染する。重症化し、最悪の場合は命を落とす。コロナの死者が世界最大であるアメリカ合衆国では、今年5月にその死者数は100万人を超えた。私はたまたまその時期にアメリカ国内にいたのだけれども、そんな私でも「100万人超がこの国から、予定外に消えた」という現実は、どうしても真に迫っては受けとめられなかった。桁数が大きすぎたのだ。

 いま私は予定外に消えたと書いた。つまり〈予定〉と記したのだけれども、読者のあなたは読んでいる間さほど違和感はおぼえなかったのではないかと思う。

 そのことを踏まえて、このパンデミックが人類にもたらしているのは、「人びとの予定を奪うことである」と私が言い換えたら、けれどもあなたは立ち止まるかもしれない。

 「現にこれほどの人命が奪われているのに、それを『予定を奪うこと』なとどいう軽いフレーズに換えるのか?」と。

 だが、私はそこで再度あなたに立ち止まってほしいのだ。

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