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[1]森山大道『10・21』の暗黒の衝動──騒乱、東京、1969

赤坂英人 美術評論家、ライター

 これは、現代日本を代表する写真家のひとりである森山大道の、その写真のラディカルさや多面性について、あらためて考えようとする連載エッセーである。

 こんなことを書けば、森山は国内はもちろん国際的にもよく知られ、1960年代に「アレ・ブレ・ボケ」と称された彼の写真やその後の作品もきわめて評価が高い、2019年の「写真界のノーベル賞」といわれるハッセルブラッド国際写真賞の受賞も記憶に新しい、2020年度の朝日賞も受賞している、何をいまさら再考する必要があるのか、という声が聞こえてきそうだ。

 もちろん、森山大道の写真が欧米を中心に世界的に称賛されていることに対して、文句をいうつもりなどまったくない。ただ、彼の写真を語る際、ここ2、30年間の日本サイドの言説は、世界サイドの言説と比して完全に後手を引いているような気がする。そこで、こうした状況の流れの加速度の力を借りながら、現代写真の白眉とも、問題作ともいわれる森山の写真を再考し、いま一度「写真とは何か?」を問いたいのである。

 そのため、これまでほとんど取り上げられてこなかった森山の写真や資料にあたることもあると思う。徐々に明らかにするつもりだが、まだ日本の写真界も世界の美術界も、問題として気づいていない重要なことがいくつかある。

 「森山大道 新宿・午前零時」の連載名については、各自、自由に解釈してほしい。まったく蛇足だが、あえていえば、森山大道の写真のエッセンスの断片を少しだけ言葉にしたものとなったかもしれない。

 「新宿」は、森山がこれまで撮ったさまざまな人間の欲望が交錯する現代都市のなかでも、江戸時代の内藤新宿以来の「悪場所」としての歴史をもつ街であり、欲望が発露する場所としての強度がきわめて高い街である。西口の高層ビル街は人間が生み出した富の価値がつねに乱高下するビジネス街である。一方、東口側には、快楽的な生と死をシミュレートした光と影が交差し乱舞する歓楽街がひろがる。新宿という街は東京のなかでもひとつの象徴的な場所である。

森山大道=2020年森山大道=2006年1月、東京・新宿

 新宿はカメラマンにとって、現在の自分を測るリトマス試験紙だと森山はよくいっていた。また「新宿を撮る」ではなく「新宿で撮る」とも。「新宿」はまた、寺山修司、中平卓馬らとの出会いの場所であり、無数の記憶が交差する場所だ。まさにラビリンス(迷宮)のような街。そして写真には幾千万の場所と時間と不確定な存在が映されている。「午前零時」は、始まりの時であり、同時に終わりの時でもある両義的な時間である。「午前零時」こそ森山大道の巨大な写真世界に入るにふさわしい時である。

火炎瓶を投げようとした黒い一個のシルエット

 森山大道は1938(昭和13)年、大阪府池田町(現在は池田市)の生まれである。高校を中退して17歳から20歳まで商業デザインを手がけた後、写真界に転身。大阪の岩宮武二、東京で細江英公の助手を経て1964年、フリーとして独立した。以降、一貫して路上での「スナップショット」を基本として、みるものに衝撃をあたえ、既存の写真表現や世界観に揺さぶりをかける写真、写真集を発表し続けている。60年代以来、若者たちにカリスマ的人気を誇り、近年は国際的にも大きな注目を集める希代の写真家である。

 ある時、私にとって「忘れられない写真」とは何かと考えた。それは、森山大道が1969年に写真誌『アサヒカメラ』で1月号から12月号まで連載した「アクシデント」というシリーズ写真をおいて他にないと思った。「突然の事故」を意味する「アクシデント」シリーズには、毎月さまざまな角度から「写真」とは何か、この世界とは何かと私たちに問いかける写真が掲載されていた。シリーズから1点を選ぶとすれば、最初の1月号『ある7日間の映像』もインパクトがあったが、個人的に最終回12月の『10・21』を選ぶ。

 この写真は、森山大道が1969年10月21日、東京・新宿駅周辺で起きた「10・21国際反戦デー闘争」と呼ばれた騒乱事件を取材した写真である。「10・21」の発端は、1966年、日本労働組合総評議会などがベトナム反戦統一ストライキを決行、この日を「国際反戦デー」に指定したことにさかのぼる。2年後の1968年10月21日、新左翼系党派の学生や労働者、若者らが国鉄新宿駅を「新宿解放区」として占拠。機動隊と衝突して、駅構内で火災が発生するなど大混乱となり、結果として、騒擾(そうじょう)罪(現在の騒乱罪)で700人以上が検挙された戦後最大級の騒乱事件となった。

 翌69年10月21日、「新宿騒乱」の再現を期待して集まった群衆と夜の闇を背景に、警察と機動隊は前年の大混乱を絶対に繰り返さないために、圧倒的動員数で新宿の街と街路を規制した。機動隊はジュラルミンの盾を前面に立て、青黒いヘルメットに戦闘服の完全装備で武装。放水と催涙弾を使って、散発的なデモ行進と衝突を繰り返すだけで明確な作戦も指揮官もいないような党派のデモ隊を力で蹴散らしていった。

 そうした状況のなかで、放水と催涙弾を浴びながら一人で、機動隊に向かって前進する青年がいた。森山は靖国通りが国鉄線等と交差する通称「新宿大ガード」の西口側から入り、ガードをくぐって東口に移動。路上に出てその青年を追った。そして彼が東側の交差点の中央で、必死で火炎瓶を投げようとする瞬間にシャッターを押した。

『10・21』=撮影・森山大道『10・21』=撮影・森山大道

 ネオンの輝きも消えた暗い新宿の路上で、警察のライトの光と、放水と催涙弾を一身に浴びながら、それでも一矢報いようとしたのか、渾身の力で火炎瓶を投げようとした青年の輪郭は、水しぶきと催涙ガスの白煙のなかで、黒い一個のシルエットとしてとらえられた。それが『10・21』の写真である。

根源的問いかけをする写真

1969年国際反戦デー 散乱する石や看板
写真説明	過激派学生が砕いた石やはがした看板が散乱して放置され、撤去が終わるまで車が立ち往生した1969年10月21日
被写体所在地	東京都新宿区西大久保1丁目の明治通り国際反戦デーで学生や活動家が砕いた石などが散乱した東京・西大久保の明治通り=1969年10月21日、撮影・朝日新聞東京本社社写真部

 当時、ぼくは北海道の札幌市に住む高校1年生。ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズが68年のパリの5月革命などを見て衝撃を受けて作ったという曲「ストリート・ファイティング・マン」を聴きながら、閉塞感漂う高校生活をおくっていた。そんな高校生にとって、毎月テーマを変容させ展開する「アクシデント」の写真シリーズは予測を超えていて、得体の知れない驚きと衝撃のかたまりだった。

 同時にそれは外界への空気穴であり小さな窓だった。その時感じた衝撃はいまでも身体が覚えている。その時投げられた疑問は解けぬまま、あの「火炎瓶」の炎の破片のように、いまも胸のなかで熱を保っている。私とは、写真とは、この世界とは何か。そんな根源的問いかけをする写真は他には無かったし、その後も同様の疑問を投げかける写真にも、写真家にも出会うことはなかったのである。(つづく)