第52回「ENEOS音楽賞」洋楽部門本賞を受賞。東京文化会館の音楽監督も本格化
2022年08月09日
野平一郎さんが、日本の音楽文化発展に大きな業績を上げた個人、団体を顕彰する「ENEOS音楽賞」(ENEOSホールディングス主催)洋楽部門の第52回本賞を受賞した。作曲家では前身の「モービル音楽賞」から数えて武満徹(第11回)、三善晃(20回)、松村禎三(24回)、西村朗(31回)、池辺晋一郎(48回)に続く6人目の本賞受賞だ。
普通の記事なら「作曲家の〜」「ピアニストの〜」と枕詞を置くが、野平さんの活動は創作から実演、教育、プロデュースまで多岐にわたり、とても一語では言い表せない。静岡音楽館AOIの芸術監督(2005年~)に続き、2021年9月からは東京文化会館の音楽監督も引き受けた。マルチな才能はどう育まれ、開花したのか? 「そもそも」に遡って話を聞いた。
――子どものころから、音楽に打ち込んでいたのですか?
野平 生まれは東京、世田谷区の東北沢です。両親は音楽家ではありませんが、音楽好きでレコードをたくさん聴いていました。5歳で親に言われ、ピアノを始めた時は「グリコのおまけ」につられただけ、最初は嫌々でした。
音楽自体は好きで、いきなりベートーヴェンのピアノ・ソナタやショパンの夜想曲、モーツァルトの交響曲などから入り、子ども向けの作品を聴いた記憶がありません。ピアノを習う子どもは皆、右手と左手に違う動きをさせるので苦労しますが、僕は得意で、どんどん上達しました。
近所の代々木上原に住んでいた作曲家の黛敏郎さんの息子、りんたろうさんとは幼馴染です。夕方、小学校が終わると黛家を訪れてはピアノを弾くので、徹夜明けで寝入っている黛さんを起こしてしまい、うるさがられたこともありました。
中学生となり、ドビュッシーの「月の光」に惹かれたのをきっかけに、日本人の作品、とりわけオーケストラ作品を聴くようになったのが最初の転機です。この出会いがなかったら、ピアノをやめていたと思います。」。
それからNHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、読売日本交響楽団の定期会員になって東京文化会館へ通いつめ、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」、松村禎三の「管弦楽のための前奏曲」など、後にN響の「尾高賞」を受けるような水準の作品の世界初演を実際に聴いて育ちました。
――聴く方から作る方に転じたのは、いつごろですか?
野平 ほぼ同時です。恩師の高良芳枝先生はN響のピアニストとして、カラヤンの指揮で松平頼則の「ピアノと管弦楽の為の主題と変奏」を弾くなど、日本の作曲家への造詣も深い方です。僕が「作曲をやりたい」と相談すると、池内友次郎先生を紹介してくださり、1年間師事しました。
池内先生の「藝高(東京藝術大学音楽学部附属高校)へ行け!」の一言で、気がついたら藝高に入っていた(笑)。天から降ってきたような話でしたが、通い出したら楽しくて仕方がない。入学以前はピアノしか知らなかったから、藝高でヴァイオリンやチェロの連中と知り合い、朝早くに登校しては室内楽に熱中するようになったのです。
ブラームスの「ピアノ五重奏曲」とか、今にして思えば随分、背伸びもしていました。当時から来る者は拒まずというか、断れない性格なので伴奏や室内楽のピアノの誘いに次々と応じていたのが、今に至る原点です。
――当然、東京藝術大学音楽学部では作曲科に進みました。
野平 矢代秋雄先生のクラスを希望したら、とってくださいました。面接の時、モーツァルトの協奏曲やブラームスの交響曲の話をしたのが気に入られたようです。矢代先生のレッスンは古典への色々な視点を交え、非常に面白かったのですが、僕がとことん現代音楽を好きだとわかり、2年目から間宮芳生先生に替わりました。
――野平さんが今に至る「musician complet(ミュジシャン・コンプレ=完全なる音楽家)」の道を歩む上で最大のメンター、アンリエット・ピュイグ=ロジェ先生とも東京藝大で会われたのですか?
野平 いいえ、1978年のフランス留学後です。ピアノ伴奏科の恩師、永冨正之先生が「日本(の音楽教育)に欠けているものを持っている素晴らしい先生だから、ピュイグ=ロジェのクラスで学びなさい」と勧めてくださいました。
ピュイグ=ロジェ先生との出会いも大きな転機であり、そのクラスに在籍したことが僕のフランスでのキャリア形成にも役立ちました。
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