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蓮實重彦『ショットとは何か』を読む(上)──映画の細部を味わうために

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 蓮實重彦の映画批評は、ひたすら刺激的だ。とりわけ、平易な語り口の、しかし内容はおそろしく濃密なロングインタビュー、『ショットとは何か』(講談社、2022)は、読者の“映画脳”を強く刺激する。なぜか。──何よりそれが、<煽動的な啓蒙書=アジびら>だからだ。つまり、読者にしかるべき映画を見たいという欲望を煽りたててやまない、過激な映画ガイドだからである。その意味で、これほど役に立つ、実戦的で“利他的”な本はまれだろう。

 むろん、やはり口語体で書かれた一連の蓮實映画本、『シネマの記憶装置』、『映画はいかにして死ぬか 横断的映画史の試み』、『映画に目が眩んで<口語篇>』、『映画狂人、語る』、『映画論講義』、『見るレッスン 映画史特別講義』などなども実に役に立つ実戦的な書物である。

『ショットとは何か』(講談社、2022)拡大蓮實重彦『ショットとは何か』(講談社/カバー写真はドン・シーゲル『殺し屋ネルソン』)
 だが、タイトルが示すように“映画原論”的な考察──大学の研究者らの書く、タコ足のように多くの注がついた退屈で不毛な「論文」とは無縁の──に加えて、日本ではいまだ公開もソフト化もされていないドン・シーゲル監督の『殺し屋ネルソン』(1957)のような、知られざる傑作の日本公開に向けてのアジテーションや、映画史的視座からの古今東西の傑作群の細部/ショットの魅力をめぐる記述、はたまた自身の幼少期以来の映画体験がつぶさに綴られる『ショットとは何か』の味わいには、格別なものがある。

Everett Collectionshutterstock拡大Everett Collection/Shutterstock.com

 たとえば、ある名画座の後部の立ち見の場所が、痴漢の手が股間に伸びてくる怖ろしい場所であったこと。二番館の最前列の席から斜め左にフィルムが映写されるスクリーンを見上げていたあげく、右側からのすきま風を受け続けたせいで顔面神経麻痺になってしまい、その治療のために1カ月近く病院に通ったこと。などなどの中学時代の映画(館)体験が臨場感たっぷりに語られる。

 かと思えば、映画を見る/書くという行為についての核心的な問いが突きつけられ、読者はハッとする──「(……)何のために(原文は傍点)に映画を見るかという設問そのものが、どこかで事態を曖昧にしてしまっている(……)。何のために(原文傍点)、ではなく、たまたま一篇の映画を見てしまったわたくしたちが、そのしかるべき細部に接した体験をどのように消化し、そこから何を吸収できるか、あるいは自分の無力さをどのように処理するかという立場に立つべきなのでしょう。つまり、現実に見ている画面の何に突き動かされ、その高揚した心をどのように鎮めることができるのか、あるいはできないのか、と問うべきなのです」(222~223頁)。

 この言葉は、決定的なものとして、私に刺さった。そうなのだ、「映画理論」、映画のメッセージ性、時事性、社会問題性、役者の演技の良しあし……などに先立って、ある画面=ショットに訳もわからず興奮し、魅惑され、打ちのめされてしまった体験/印象を出発点にすること。それ以外に、映画を見ることの、あるいは映画を批評することの意味は存在しえないのだ。

 つまり、淀川長治にとって映画がそうであったように、蓮實にとっても、映画は思索の対象である以前に、まずもって興奮の対象なのであり、けだし映画批評とは、ある映画から受けた強度の印象/衝撃を論理化することなのだ──。そのことを改めて確認させてくれる言葉である。そして、『ショットとは何か』におけるもろもろのトピックは、この命題のさまざまな変奏、ないしは例証であるといえよう。


筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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