蓮實重彦『ショットとは何か』を読む(下)──ドゥルーズ、バザン批判など
藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師
フィクションの装置としての映画

映画批評家・蓮實重彦
つまるところ蓮實は、映画は1秒あたり18ないし24のコマ=静止画像からなる、<運動の錯覚>をあたえるメディアであり、その意味ではいかなる「現実」の反映でもない、途方もないフィクションの装置である、と論じる(そこで肯定的に参照されるのが哲学者ベルクソンであるが、蓮實はまた、映画を「毎秒二四倍化された死」と呼んでいる<『映画論講義』東京大学出版会、2008、382頁>)。
けだし蓮實は、「運動イメージ」などという曖昧な言葉を使うドゥルーズには、映画がフィクションの装置であるという認識が致命的に欠けており、つまり、映画の真実とは、映画の中にしか存在しえないフィクションとしての真実/リアルだ、という認識が根本的に欠けているのだ、と明快に述べる(もっとも、映画がフィクションの装置である、と蓮實が述べるのは、あくまで原理的にはそう言える、ということであって、蓮實も実際の映画批評では、たとえば「女優モーリン・オハラの美しさ」とか、「フォードにおける投げるというアクション(運動)」、と書く。つまり、「女優」や「アクション(運動)」を、カメラによって撮られることでしか存在しえない<フィクションの中での実体>、と見なして批評を書くわけだ。そこで肝心なのは、ある言葉がどのような文脈において書かれるか、であり、ある言葉はある文脈の中で定義される、という点でもある)。
そして、『シネマ1・2』の弱点は映画のフィクション性を十分に認識していない点にある、という蓮實のドゥルーズ批判の論拠は、仏ヌーヴェル・ヴァーグの理論的支柱であったアンドレ・バザンの「リアリズム信仰」を批判するさいの蓮實のそれと、ほぼ同じものだ(186頁以下)。バザンはひとことで言えば、映画は客観的な(映画外の)現実を、カメラの──デクパージュ/カット割りなしの──長回しによって再現するものであり、そうして撮影された被写体は確固たる現実/存在の指標=インデックスである、と主張した。
そうしたバザンの、再現的リアリズム論/リアリズム信仰に対し、蓮實は、それは違う、われわれは映画の中の現実を<信じるふり>をしているだけであり、映画の中の現実/存在/真実は、そうであるかに見える<まがいもの>であり、<真実らしさ>でしかないとして、やはり映画のフィクション性を強調する。
また、カメラの長回しを特権化するバザンのリアリズム信仰に反論するさいに蓮實が援用するのが、ジャン=リュック・ゴダールが批評家時代の初期に書いた、「古典的デクパージュの擁護と顕揚」(1952、『ゴダール全評論・全発言Ⅰ』奥村昭夫訳、筑摩書房、1998)という興味深い評論だ(198頁以下)。ゴダールはそこで、たとえばワンシーン・ワンショットのような長回しより、<デクパージュ/カット割り>による空間的不連続性こそが映画を活気づける、という趣旨の主張を展開し、<デクパージュ>におおむね批判的だったバザンを反=批判しつつ、劇映画であろうとドキュメンタリーであろうと、映画のフィクション性を際立たせる手法の一つである<デクパージュ>の効果を、強調している。

ジャン=リュック・ゴダール Denis Makarenko/Shutterstock.com
それにしても、蓮實も言うように、22歳のゴダールが書いた評論が、
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