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必見! 『みんなのヴァカンス』──“休暇映画”の最前線

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 ヴァカンス映画はフランス映画の十八番(おはこ)であるが、皮肉の利いた恋愛コメディーの名手、エリック・ロメール監督(1920~2010)や、<ヴァカンスvacance(仏語)=“空っぽ/無”>というコンセプトを美しく映像化したジャック・ロジエ監督(1926~)の傑作群が、その代表作だ(『海辺のポーリーヌ』<ロメール、1983>、『アデュー・フィリピーヌ』<ロジエ、1962、絶品!>など)。

 そして、フランス・ヴァカンス映画の最も正統な後継者といえば、1977年パリ生まれのギヨーム・ブラック監督である。今回はブラックの最新作、タイトルもずばり『みんなのヴァカンス』(2020:原題は「乗り込め」)を紹介するが、彼がめざすのは、何より、ロメールやロジエのヴァカンス映画のリブート/再起動である。

©2020 - Geko Films - ARTE France拡大ギヨーム・ブラック『みんなのヴァカンス』(エレナ/アナ・ブラゴジェビッチ<左>とシェリフ/サリフ・シセ) ©2020 - Geko Films - ARTE France

 ただし、ロメールらの映画とブラックの映画には、明らかな相違点がある。それは、ロメールの恋愛描写に顕著であった、艶(あで)やかな官能性や、機知に富んだセリフによる男女の虚々実々の駆け引き、あるいはロジエの映画の発するアンニュイと刹那主義と漂流感が一体となったエモーション、といった要素が、ブラックの映画には希薄である点だ。こうしたブラックの傾向を、21世紀的な<散文性>と呼ぶことにしよう(ブラック映画の製作面や内容面での今日的性格については、「付記」参照)。

 このようなブラック独特の<散文性>は、フランス北部のうら寂しい避暑地を舞台に、もてない男性主人公の孤独を“低体温”で描く劇場デビュー作、『女っ気なし』(2011)や、美男美女ではない「普通」の男女の恋のもつれを描く、『7月の物語』(2017)に、端的に表れている。

 では、『みんなのヴァカンス』はどうかといえば、この作品でも、ギヨーム・ブラックならではの<散文性>は顕著であり、一見どうということもない物語に、いわば“映画の風を吹かせる”卓抜な演出力が冴えわたる──。

 主人公、というか主要人物は若者4人、ないし5人(後述)である。ヴァカンスシーズンのさなか、2人の黒人男性、看護師のフェリックス(エリック・ナンチュアング)とその親友の大学生シェリフ(サリフ・シセ)が、それぞれアルマ(アルマ・メサウデンヌ、白人)、子連れのエレナ(アナ・ブラゴジェビッチ、白人)と出会う。

 彼、彼女らの関係は、すれ違ったりギクシャクしたりで、なかなかスムーズに進展しないが、要約しにくい本作の物語を、あえて要約すれば──ある夏の夜、フェリックスはセーヌ河畔のダンスパーティーで出会ったアルマと情を交わすが、彼女は翌朝、家族とともにヴァカンスへ旅立ってしまう。アルマが忘れられないフェリックス。そそっかしいが行動的な彼は、親友のシェリフ、相乗りアプリで知り合った白人青年のエドゥアール(エドゥアール・シュルピス)を道連れに、アルマを追って南フランスの田舎町ディーに向かう(エドゥアールを入れれば主要人物は5人だが、なよなよして、母親から“子猫ちゃん”とか呼ばれるマザコンぎみの彼には、絶妙なおかしさがある)。

 ドラマの前半ではフェリックスとアルマの物語が、後半ではシェリフとエレナの物語が焦点化される。だが2つの物語は、「1話・2話形式」ではなく、いわば、ひと続きにつながっている。つまり全編を通じて、5人は入れ代わり立ち代わり登場し、さらにアルマの姉(リュシー・ガロ)らも加わるなか、物語は前半から後半へゆるゆると移行していくのだが、そうした、文字通り“みんなのヴァカンス”ともいうべき民主主義的な(?)、「小さな群像劇」的なドラマの推移が、なんとも心地いい(巧いなあ)。

 そして、母親の車でライドシェアをやっているエドゥアールが、女性になりすましたフェリックスとシェリフに騙された挙句、彼らと一緒に向かった先のディーで車の接触事故を起こす場面や、フェリックスがアルマの前にサプライズ登場して彼女をシラケさせるところ、さらにライフセーバーの青年をフェリックスが勝手に恋敵だと思い込んだことから起こる渓流下りでのドタバタなど、ユーモラスな小波乱が軽妙に描かれる(以上が物語の(不完全な)要約だが、本作の物語が要約しにくいのは、おそらく、ドラマの焦点がさまざまな人物の間を行ったり来たりするからだろう)。

 そして前述のように、こうした、どこにでもあるような物語を、緩急自在のテンポで描くブラックの手つきは、きわめて非凡だ。たとえば、顔のクローズアップによる心理説明をできるかぎり省き、屋外でも屋内でも人物の周囲の空間をフレームに大きく取り込む、ロングに引いた長回しぎみの画面が見事だ(ブラックが敬愛するジョン・フォード的な映像の現代版だとさえいえるが、長回しぎみの画面をパッと切って場面転換する、大胆な時間省略も凄い)。

 なお、フレームに映り込む草木も、男女が不器用に言葉を交わす水辺も、前記エリック・ロメールの描く、匂い立つように官能をくすぐる真夏の風物/自然ではない。それらは、あくまで希薄な、清々(すがすが)しい被写体として画面に映えているのだ。

 プロットの点では、一見ランダムに各場面を並べただけに思えるその構成も、じつは入念に練られている(私は二度目に見たとき、その構成の妙に感嘆した)。すなわち、恋愛だけにフォーカスせずに、恋愛以外のさまざまな挿話を快いノイズとして散在させる、というエピソード配列が、すこぶる周到なのだ(おそらく即興の余地を残すこともブラックの計算内だろう)。映画づくりにあっては、撮影や演技設計もさることながら、脚本の秀逸さが不可欠であることを再確認させてくれる構成だ。

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筆者

藤崎康

藤崎康(ふじさき・こう) 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

東京都生まれ。映画評論家、文芸評論家。1983年、慶応義塾大学フランス文学科大学院博士課程修了。著書に『戦争の映画史――恐怖と快楽のフィルム学』(朝日選書)など。現在『クロード・シャブロル論』(仮題)を準備中。熱狂的なスロージョガ―、かつ草テニスプレーヤー。わが人生のべスト3(順不同)は邦画が、山中貞雄『丹下左膳余話 百万両の壺』、江崎実生『逢いたくて逢いたくて』、黒沢清『叫』、洋画がジョン・フォード『長い灰色の線』、クロード・シャブロル『野獣死すべし』、シルベスター・スタローン『ランボー 最後の戦場』(いずれも順不同)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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