1985年にソウルでつかこうへいが上演した『熱海殺人事件』。その幕がいよいよ上がります。
4人の俳優たちの「熱い言葉」
ソウルでの『熱海殺人事件』公演が行われるのは、大学路(テハンノ)と呼ばれる地区にある「文芸会館」(ムニェヘガン)という客席数800ほどの新しい劇場である。周りはソウル大学が移転した跡に出来た広い公園だった。
初日を翌日に控えた10月31日、我々は劇場に入った。
建ったばかりだけあって、外見も設備もすばらしい小屋(我々芝居屋は劇場をそう呼ぶ)で、仕込みはすでに始まっていた。
舞台装置は大小ふたつのデスクと4脚の椅子だけだから、準備はほぼ照明の吊り込みに費やされる。
それが終わるのを待つ間、僕は楽屋で俳優たちにインタビューを行った。
通訳は全玉淑の娘、蘭実(ナンシル)だ。2カ月近い稽古にずっと付き合ってきた彼女自身が、初めての劇場入りにかなり高揚しているようだった。
4人の俳優たちは皆、つかとの出会いをその役者人生の中での全く新しい、文字通りの劇的な体験であり、衝撃的な事件だったと語ってくれる。
原稿を埋めてくれそうな言葉をたっぷりもらい、シメシメというところだったが、その韓国語ならではの「熱さ」をどれだけ文字で伝えられるか、正直、自信はなかった。
午後から場当たり。舞台上の役者たちの動きを芝居のアタマから確認し、その立ち位置を照明との兼ね合いで決めていく。その中で音楽が入る場面は、きっかけの台詞に合わせてのタイミングや、音量なども調整する。
それがすべて終了し、ゲネプロと呼ばれる本番どおりの通し稽古が始まったのは、夜の9時を過ぎてからだ。結局小屋を出る頃には日付が変わっていた。
斎藤一男は劇場入りしてからその時間まで、客席や楽屋などを絶えず動き回り、舞台の芝居やつかこうへい本人を中心に、あらゆるものへレンズを向ける。役者やスタッフが休憩なり食事の時間でも、シャッターは押され続けるのだから、休む暇はない。そして初日もまた、同じことが繰り返されるのだ。その姿は我々の劇団時代のままだった。

ソウルの夜道を歩く(手前左から)斎藤一男、つかこうへい、小山一彦、(奥)原田隆、山本能久=1985年
それは決して、斎藤一男のカメラマンとしての本来の仕事ではなく、〝持ち出し〟もかなりあったはずだ。しかし斎藤は絶えず楽しげにそれをこなし、僕らはつかより何歳か年上である彼を、劇団の一員であるかのようにどこか錯覚していたかもしれない。
そして丸3年が経ち、韓国ソウルでそんな斎藤が復活するのを目の当たりにしたとき、今さらながら、つかこうへいがまた舞台をやるのだという実感がこみ上げ、僕は何やら胸が熱くなっていた。
その日もまた、明洞の居酒屋での深夜の宴は繰り返され、『ソウル版・熱海殺人事件』はいよいよ初日を迎えることになる。
【韓国で再び舞台演出を】のこれまで
①母に捧げるソウル公演、つかこうへい再び舞台へ
②つかこうへい演劇の本質照らしたソウル版『熱海殺人事件』
③日韓を結んだ大プロデューサーとつかこうへい
④ソウル版『熱海殺人事件』への石丸謙二郎の貢献
⑤仲間が続々ソウル入り、上演不許可乗りこえたつかこうへい