つかこうへいが1985年にソウルで手掛けた『熱海殺人事件』の記録、これで最終回です。打ち上げの宴で筆者を襲った災難とは――。翌々年の日本公演のエピソードまで、長い旅の終わりをつづります。
【韓国で再び舞台演出を】のこれまで
①母に捧げるソウル公演、つかこうへい再び舞台へ
②つかこうへい演劇の本質照らしたソウル版『熱海殺人事件』
③日韓を結んだ大プロデューサーとつかこうへい
④ソウル版『熱海殺人事件』への石丸謙二郎の貢献
⑤仲間が続々ソウル入り、上演不許可乗りこえたつかこうへい
⑥ソウルでの『熱海殺人事件』、ついに開幕
⑦つかこうへい、ソウルで〝事件〟に見舞われる
「旅行に行くぞ」、古都・扶余へ
ソウルでの『熱海殺人事件』公演も残すは3日ほどになり、日本からの客もすべて消化した頃だった。公演終了まで残ることになっている僕と菅野重郎、江美由子の前で、つかが突然、「旅行に行くぞ」と言い出したのだ。
行き先は「扶余(プヨ)」だという。
つかの突然の思いつきと身勝手な要求はいつものことだが、何かきっかけがあったはずだ。
小山一彦に訊ねると、今回の韓国滞在中、何度か扶余という町の歴史をつかに話したことがあるという。
「5世紀頃、当時『百済』の首都だった『扶余』に流れる『白馬江(ペクマガン)』という川から、高僧が船に乗って日本に渡り、漢字や仏教を伝えたんだってことを、知識として披露したら、つかさん、何だか興味持っちゃったみたいでね」
おそらく作家として、つかは将来何かに使えるとでも思ったのではないか。まぁそれ以上に、長く続いた緊張感から逃れ、少し骨休みでもしたいと思ったのかもしれない。
小山はつかに言われるままにスケジュールを立て、翌日、我々はソウル市内のバスターミナルに向かった。

扶余への小旅行で(左から)菅野重郎、筆者、江美由子、小山一彦、つかこうへい=1985年
今になって小山は告白する。
「急な話だったんだけど、何だかつかさんに言われると『ええい、ままよ』って感じで全部受けてしまうんだよね。実は日本から持って行ったビデオカメラは放送規格で、当時の額だと一千万ほどするものでね。それを劇場の上手の隙間に置きっ放しにすることになって、ただただ気がかりだったんだけど、行くしかなかったから」
扶余までは高速バスで3時間弱。途中一度だけバスは停まり、休憩があった。
余計な話だが、このとき撮った写真が、『つかこうへい正伝』での著者紹介の部分で使われているものだ。後ろに写るバスの行先表示がハングルなので、韓国であることがわかるのだが、これが僕の人生でたった1枚きりの、つかこうへいとのツーショットである。
さて、午後になって着いた扶余は、本当に何もないところで、寒村としか言えない景色が広がっていた。
それでも、由緒あるという寺を5人で訪ね、百済滅亡の折、3千の官女たちが身を投じたと伝えられる丘の上から、眼下の白馬江を見降ろすと、ここから漢字や仏教が日本に渡ったということも含めて、不思議な感慨があり、しみじみ来てよかったという思いになった。
その夜は、小山が手配した民宿に泊まり、オンドルで下から温まる広い部屋に並ぶ料理を囲んで、車座になり、ひたすら真露を飲んだ記憶がある。
夕食前には街頭の屋台を囲み、積まれた貝を焼いてもらいながら、ここでも真露を飲んだはずだ。