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『笑っていいとも!』の個性的なレギュラー出演者たち

[8]芸人から作家、芸術家、政治家まで、その歴史から見えてくるもの

太田省一 社会学者

 前回、『笑っていいとも!』に見えるタモリ、ビートたけし、明石家さんまの関係性についてみた。

 とはいえ、『いいとも!』は、彼ら「お笑いビッグ3」だけで動いていたわけではない。むしろ32年間の歴史を通じ、これほど多彩な芸能人や有名人がレギュラーを務めた番組もまれだろう。今回は、そこに映し出される『いいとも!』という番組の本質を探ってみたい。

レギュラー出演期間最長の関根勤、それに次ぐ笑福亭鶴瓶

 全部で延べ250人超がレギュラーを務めたとされる『いいとも!』(『スポーツニッポン』2014年3月31日付記事)。約32年の歴史において、タモリ以外でレギュラー出演期間が長かったのは誰だろうか?

 まず、最も長かったのが関根勤で、実に28年6カ月(1985年10月から2014年3月まで)に及ぶ。

 前にもふれたが、関根は「身内自慢コンテスト」などの司会を長く務めた。登場した素人を見て瞬時にイメージを膨らませ、「今日の朝食は○○を食べてきました」というような、相手が不快にならない“やさしいツッコミ”を入れて笑いをとるスタイルは、この番組との相性が抜群だった。そこに見える素人との適度な距離感も、タモリに一脈相通ずるものがあったと言えるだろう。

関根勤さん最長の28年6カ月、レギュラーとして出演した関根勤

 2番目に長かったのが、笑福亭鶴瓶である。1987年4月から2014年3月まで、27年にわたってレギュラーを務めた。出演の曜日も木曜日で、ずっと変わらなかった。

 関根勤にも言えるが、芸人か素人かを問わず人当たりが柔らかく、相手の個性をポジティブに面白がるスタンス、また時には相手が後輩芸人であってもいじられ役に回れる柔軟な芸風は、やはり『いいとも!』という番組と親和性の高いものだった。

 また、キャリア面でタモリと対等に接することのできる出演者としても、鶴瓶の存在は貴重だった。特に明石家さんまが1995年9月でレギュラーを降りてからは、自ずと番組の重鎮的なポジションになっていた。

 実際、タモリからの信頼も厚かった。ある時点で、鶴瓶は『いいとも!』を辞めることを考えていた。だがその旨を前もって報告した際、タモリは「あなたは辞めたらダメ」と言い、その場で番組プロデューサーに電話をかけ、辞めさせないよう直訴した。その光景を目の当たりにして、鶴瓶は番組が終わるまで出演し続けることを決心したという(『伯山カレンの反省だ!!』テレビ朝日系、2021年3月13日放送回)。

 続く3番目から5番目までは、中居正広(20年)、香取慎吾(20年)、そして草彅剛(18年6カ月)とSMAP勢が並ぶ。いずれも1990年代中盤にレギュラーとなった。SMAPが『いいとも!』にもたらしたものについては次回改めて述べる予定なので、詳しくはそちらに譲りたい。一言だけ付け加えれば、1990年代以降の『いいとも!』においてSMAPが担った役割の大きさが、この数字からだけでもうかがえるはずだ。

中居正広さんと笑福亭鶴瓶さん 第58回NHK紅白歌合戦司会者2007年11月12日『笑っていいとも!』で長くレギュラーを務めた中居正広(左)と笑福亭鶴瓶=2007年11月、NHK紅白歌合戦の司会者発表の席で

「お笑い第三世代」と『いいとも!』

 『いいとも!』のレギュラーになることは、若手芸人にとってのステータス、全国区の知名度を得るためのパスポートでもあった。制作側も、旬の若手芸人を積極的にレギュラーに起用した。たとえば、いまや大御所となった「お笑い第三世代」の芸人たちも、そうだった。

 そのなかで一番早くレギュラーとなったのが、ウッチャンナンチャンである。1988年10月にレギュラーに就任し、1994年3月まで務めた。

 タモリとともにやっていたクイズコーナー「世紀末クイズ“それ絶対やってみよう”」などが人気に。南原清隆が踊る「ナンバラバンバンダンス」も印象深い。流れてきた音楽に合わせて南原がアドリブで軽快に踊ったのがウケて、「南原ダンスコンテスト」というコーナーまで誕生したほどだった。いずれも、彼ららしく世代を問わず楽しめるテイストのものである。

南原清隆さん=東京都港区東新橋、篠田英美撮影「ナンバラバンバンダンス」などで人気が高かったウッチャンナンチャンの南原清隆=撮影・篠田英美

 ダウンタウンは、1989年4月から1993年3月までレギュラー。就任は、関西ですでに爆発的な人気を集めていた2人が東京進出を本格化しようとするタイミングだった。

 素人はもちろん、タモリに対してもツッコむときには遠慮なく頭を叩くなどして本領を発揮していたダウンタウンだったが、特に彼ららしさを感じさせるのは“自主降板”に至った経緯である。

 浜田雅功は、何度かそのときのことをテレビで語っている(『ダウンタウンなうSP』フジテレビ系、2016年1月15日放送回など)。

 その話によれば、“自主降板”の理由は、自分たちの求める笑いと『いいとも!』の観客の反応に埋めがたいギャップを感じたからだった。ダウンタウンにとっての笑いの基本は漫才であり、2人の絶妙の間と掛け合いである。ところが、『いいとも!』はそれを存分に発揮できるような空間ではなく、彼らのアイドル的人気もあって観客はちょっとおどけたりするだけで笑うようになっていた。そこで、2人で話し合って降板を決めた。

 このエピソードからは、ダウンタウンの笑いに対する信念の強さがうかがえるとともに、1990年代前半に『いいとも!』がひとつの危機に陥っていた様子が見える。その状況は、この連載でも前にふれたように(「フジテレビの時代」と『笑っていいとも!』)、『いいとも!』の前番組である『笑ってる場合ですよ!』が直面した危機と酷似している。それで同番組は、終了に至ったのだった。では『いいとも!』は、そこをどう乗り切ったのか? そのあたりのことは、後の回で改めてふれることにしたい。

 「お笑い第三世代」の中心だったもう一組、とんねるずは、通常のかたちでのレギュラー出演はない。だがとんねるずとタモリには浅からぬ縁があった。

 1980年代初頭、とんねるずはオーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系、1980年放送開始)に挑戦した。まだブレークする前である。

 テレビ番組のパロディや物まねを矢継ぎ早に繰り出す彼らのネタは、審査員のベテラン芸人からはあまり理解されず、ウケが良くなかった。そのなかで、とんねるずを「なにやってるかわからないけど面白い」と言って認めてくれたのが、審査員のひとりであるタモリだった。

 そのときの恩を忘れていなかったとんねるずは、

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