脚本家・黒澤明、「世界のクロサワ」もう一つの顔
寝ずに書いた修業時代、今も「現役」の魅力を語る展覧会
槙田寿文 黒澤明研究家
寸暇を惜しんで「書く」助監督
1936年春、黒澤明は助監督として東宝の前身であるPCLへ入社した。応募者500人から5人採用という難関だった。
助監督2本目で、生涯の師となる山本嘉次郎と出会う。翌37年は、主に山本組の助監督をこなしながら、滝沢英輔、成瀬巳喜男ら一流の監督の作品にもついて経験を積み、入社わずか1年半でチーフ助監督(製作主任)に昇進した。
この時期、黒澤は親友・谷口千吉と成城(東京都世田谷区)のブリキ屋の2階で短い期間ながら同居していた。後に谷口はエッセイでこう書いている。
「その当時の彼の勉強振りには今でも頭が下る。(中略)本を読んでる黒澤がもう5頁、もう3頁、というのを仕舞いに怒鳴りつける。(中略)夜半にふと肩先が寒いので眼をあくと、ボンヤリ灯がついてる。横目でそっと見ると、黒澤は枕もとの畳に蝋燭を立ててボール紙でかこって、今度は何か書いてる。(中略)サラサラ鉛筆を走らせる音。(中略)光が洩れない様に大きな両手で蝋燭をかこって、そっと僕の寝息をうかがってる――。こんなことが殆んど毎晩だった。一体彼は一日何時寝るのだろう。助監督は夏は朝六時半には会社で準備を始めねばならない。(中略)しかも三日にあげず徹夜がある。こうした僅かの時間を盗んで書いては破り、書いては破りして出来上ったシナリオが次々に情報局や雑誌社の懸賞募集に当選し始めたのである。黒澤明は天才でも何でもない。努力の人、琢磨の人であって、今日あるのは偶然ではない。」(雑誌『スクリーンステージ』1948年11月号)

㊧谷口千吉(1912~2007)。黒澤との共同脚本『銀嶺の果て』で監督デビュー。作品に『ジャコ万と鉄』『暁の脱走』など/㊨本多猪四郎(1911~93)。『ゴジラ』(54年)など怪獣映画を数多く手掛け、黒澤作品で監督の補佐役も務めた
1938年、黒澤は撮影所近くの東宝の社員寮の様な下宿屋・武蔵荘に本多猪四郎と共に移り住んだ。そこには後に盟友となる本木荘二郎も住むことになる。彼らは毎晩芸術論を交わし、貧乏ながら青春を謳歌していた。本木は「黒沢くんて人はその頃から、一生懸命、脚本書いていましたよ。ぼくら、酒飲んで遊んでるんだけど、帰るとね本書いてるんですよ。偉かったね」(「東宝映画 戦中から戦後へ 若き黒澤明の周辺」 雑誌『映画芸術』 1976年4―5月号)と書き残している。