メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

追悼・古谷一行さん~風のように自由な金田一耕助からモテるおとなの男まで

ペリー荻野 時代劇研究家

 8月に亡くなった古谷一行さんには、多くの出演作について語っていただいた。あの魅力的な声と、にこやかに語られた姿は今も心に残る。病後、復帰を目指してトレーニングを続けていた最中とのことで、本当に残念である。

 俳優生活の始まりは、弁護士を目指して大学の法学部で学びながら、演劇に興味を持ち、俳優座の研修生となったことだった。同期には太地喜和子、峰岸徹らがいた。劇団の先輩とバンドを組んで、ご本人はビートルズファンだったが、フォーク、ロック、演歌まで歌ったという。後にレコードデビューし、「名探偵 金田一耕助」シリーズのエンディングテーマにもなった伊勢正三作曲の「糸電話」など、多くの歌を発表している。

古谷一行さん「金田一耕助」シリーズから「金曜日の妻たちへ」「失楽園」まで幅広い役をつとめた古谷一行さん

 舞台からNHK朝ドラ「虹」(1970)など、ドラマ出演が増えていったが、当初は舞台と発声が違い、つい声を張ってしまって戸惑ったという。最初に注目されたのは、1974年の「華やかな荒野」だった。紡績会社でファッション開発を手掛ける男(古谷)が、社内に婚約者がいながら、後に出会ったふたりの女性の間で揺れ動く。製作はTBSと木下恵介監督の木下プロ。70年代に木下プロが関わったドラマでは、竹脇無我、田村正和、近藤正臣ら若手二枚目スターが人気を得ていた。ご本人も「メロドラマですが、人間をしっかり描く木下恵介監督の流れをくんだ木下プロでしたから、自分にとって大切な作品になると確信していました。実際、大きな転機になった作品です」と語っていた。

足袋を湿らせ下駄で走った金田一耕助

 その後1977年、当たり役となる横溝正史シリーズ(TBS系)の金田一耕助と出会う。抜擢のきっかけは毎日放送の幹部のお嬢さんが、「古谷一行さんがいい」と名前を挙げたことだった。関係者はあわてて調べ、第1作「犬神家の一族」の製作にあたった映像京都の西岡善信代表と工藤栄一監督が、嵐山の湯豆腐屋で古谷さんに面談。西岡さんによると「ボサボサ頭と袴が似合いそうや」の一言で決定したらしい。

金田一耕助役は俳優古谷一行さんだ=2003年1月31日真備町金田一耕助シリーズのロケ地で=2003年1月31日、岡山県倉敷市真備町

 「犬神家の一族」は莫大な財産を巡って、遺された三姉妹の息子たちが家宝の「斧・琴・菊」になぞらえて次々と惨殺されていく。三姉妹には、長女松子に京マチ子、二女竹子に月丘夢路、三女梅子に小山明子。ヒロイン珠世には宝塚歌劇団の元娘役の四季乃花恵、白いゴム仮面をつけた佐清には田村亮という豪華な顔ぶれが揃った。

 この配役には、こだわりがあった。大物キャストは、各々自己主張が強く現場が苦労するので、作品作りの大変さをよく知る監督の奥様に協力してもらおうと、井上梅次監督夫人の月丘、大島渚監督夫人の小山に声をかけたのだった。そうした裏事情を知らず、撮影のため京都入りした古谷さんは、大スターに囲まれ、逃げ出したいほどの緊張を味わう。だが、数々の名画に関わった大映のスタッフによる見事な仕事ぶり、チリ一つない「犬神家」の豪奢な座敷に入ったときは感動し、身が引き締まったという。

 このシリーズは、俳優古谷一行と多くの名監督との出会いの場ともなった。

 ダイナミックな演出で知られる工藤監督によるファーストカットは金田一が逆立ちして歩くシーンだった。この逆立ちは古谷金田一に何か特長を出そうと監督と古谷さんが京都の宿で相談して決めたもの。当時は映画で石坂浩二主演の『犬神家の一族』(市川崑監督、1976)が大ヒットした直後で、出演者もスタッフも当然意識していた。ドラマの金田一はお茶の間の視聴者に親しんでもらうため、よくしゃべり、よく走る。下駄の上で滑らないように足袋の裏を湿らせて、でこぼこ道を駆けまわったのだ。

 全5話の「犬神家の一族」は高視聴率を記録。その後、第2作「本陣殺人事件」の蔵原惟繕監督、第2シリーズ第1作「八つ墓村」の池広一夫監督と、ストーリーごとに監督が替わり、金田一の繊細さややさしさも引き出された。

 「俳優としてこんな経験はなかなかできません。みなさんのおかげで原作者の横溝さんにも『君は金田一のイメージに合ってる』と言われました」とうれしそうだった。

 なお、「犬神家」撮影時は、先に東京で近藤勇(平幹二朗)、沖田総司(草刈正雄)らと共演した「新選組始末記」(TBS系)の土方歳三の役が決まっていて、週の半分ずつ東京と京都を行き来する日々だった。さぞかし大変だったかと思うが、東京では

・・・ログインして読む
(残り:約1225文字/本文:約3055文字)