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没後120年、いま正岡子規を読む意味──復本一郎『正岡子規伝』とともに

松澤 隆 編集者

 今年は、正岡子規が亡くなって120年目。厳密な周忌となると、昨年2021年が百二十回忌だが、いずれにせよ9月19日の忌日を前に、子規について、あるいは子規を通じ俳句ないし短歌という文藝について少し考えてみたくなり、子規はもちろん、俳文学全般の泰斗・復本一郎先生を訪ね、お話をうかがった。

 先生と最初にお会いしたのは、今世紀始め。或る俳句初心者向け出版物の編集に関わっており、その執筆者だった。当時「復本一郎」という名前は、松尾芭蕉の高弟・向井去来の「去来抄」、同じく服部土芳の「三冊子」など「蕉門」俳論の専門家、あるいは同時代の蕉門ではない上島鬼貫をも高く評価した研究者という認識。緊張してご依頼したものの、喜んで引き受け、意欲的に対応してくださった。蕪村や漱石の秀句にのみ好感を抱いていた自分に、俳諧(句)全般の魅力を教えてくれたのは、まさに復本先生だった。

正岡子規の主著『俳諧大要』原書をもつ復本一郎氏=筆者撮影拡大正岡子規の主著『俳諧大要』原書をもつ復本一郎氏=筆者撮影

「親切」で「いつも若々しい」病家のあるじ

 お訪ねした復本先生は、子規への関心を深める端緒になった一冊として「子規追悼集」を見せてくれた。子規が心血を注ぎ、郷里松山の後輩・高浜虚子が引き継いだ俳誌「ホトトギス」の追悼号(歿後3カ月、1902年12月の発行)である。最年長の門弟・内藤鳴雪を筆頭に、周辺にいた人々が追慕の文章を寄せている。

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「子規追悼集」(「ホトトギス」第6巻第4号、1902年12月刊)の目次。多くの門弟たちが文章を寄せた=筆者撮影拡大「子規追悼集」(「ホトトギス」第6巻第4号、1902年12月刊)の目次。多くの門弟たちが文章を寄せた=筆者撮影

 中でも先生が注目したのは、佐藤紅緑だ。紅緑は、子規にとって最大の恩人の陸羯南(くが・かつなん)と同じ弘前出身。陸家の書生時代に7歳上の子規を知り、その死まで師事した(次女・佐藤愛子によれば、紅緑は生涯「しきせんせい」と敬称で呼んだという)。追悼号ではその出会いが、後年の大人気作家を彷彿とさせる、鮮やかで諧謔を含む描写で綴られている。

 さらに示されたのは、回想「糸瓜棚の下にて」。子規の三十三回忌の1934年、「日本及日本人」(9月15日刊)に掲載されたもので、紅緑は9カ条の美点を掲げていた。

 ≪いつでも若々しい事/天空海濶な事/度量の広い事/親切である事/自分に対して厳正なる事/他の非を忍容する事/いつまでも研究的である事/金銭に淡泊である事/胸襟を披(ひら)いて人に接する事≫

 ここに、いま子規を読み返す意味が詰まっている、と言ってよいのではないだろうか。子規は20代で結核を発症し、やがて結核菌による脊椎カリエスに苦しみ、満34歳で亡くなるまで、病床での生活を強いられた。看病に尽くした3歳下の妹・律や、母・八重には甘えたし、わがままも言った。英国留学中の親友・夏目漱石には泣き言も書き送っている(1901年11月)。

 ≪僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ……≫

 だが、どんなに苦しくても落ち込んでも、人嫌いにはならず、多くの知己もまた、子規庵を訪れるのを楽しみとした。当時の結核患者は現在の感染症以上に忌避され、差別も受けた。親しくても見舞いたくても後難を避けるため疎遠になった例は、数知れない。そういう時代に、請われたからでなく自ら望んで多くの人が会いに来た。俳句・短歌の教えを乞うためだけではあるまい。紅緑だけでなく病家の訪問者たちの回想・書簡からは、子規その人の大きさが伝わる。病身なのに「天空海濶(心が広々としてわだかまりがない)」で「親切」。自らには「厳正」、他者の「非を忍容」……。

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筆者

松澤 隆

松澤 隆(まつざわ・たかし) 編集者

みすず書房で出版営業、表現研究所(現・小学館クリエイティブ)で編集全般、春秋社で書籍編集に従事し、その後フリー。企画・編集した主な書籍は、佐治晴夫『からだは星からできている』『14歳のための時間論』、小山慶太『星はまたたき物語は始まる』、鎌田浩毅『マグマという名の煩悩』、立川談志『世間はやかん』など(以上すべて春秋社刊)。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです