メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[2]飛騨高山の元妓楼「旅館かみなか」と、『全国遊廓案内』

関根虎洸 フリーカメラマン

 飛騨高山にかつて遊廓の妓楼だった老舗旅館があることを知った私は、桜が満開を迎えた頃に「旅館かみなか」を訪ねた。日本三大美祭のひとつとされる春の高山祭(山王祭)を控えた高山の街並みは華やいだ雰囲気に包まれていた。

高山市内の中心部を流れる宮川に朱色の中橋が掛かる。川沿いの桜が満開だった=撮影・関根虎洸高山市内の中心部を流れる宮川に朱色の中橋が掛かる。川沿いの桜が満開だった=撮影・関根虎洸

 旅館かみなかの歴史は明治時代まで遡る。明治21(1888)年、高山に花岡遊廓が設置されると、岐阜県統計書によれば、3500坪の土地に4軒の貸座敷と19人の娼妓が在籍した。

 大店だった常盤楼を買い取り、妓楼を始めたのは創業者の上仲民之助氏(1871─1940)だった。

家族や娼妓たちに囲まれた中央の男性が創業者の上仲民之助。かみなか楼の中庭にて=大正中期、旅館かみなか所蔵家族や娼妓たちに囲まれた中央の男性が創業者の上仲民之助。かみなか楼の中庭にて=大正中期、旅館かみなか所蔵

 妓楼の屋号は常盤楼から末広楼となり、やがてかみなか楼へと変わっていく。

 「娼妓は10~12名くらいだったようです」と語る3代目当主の上仲豊和さん(72歳)は、民之助氏にとって孫に当たる人物である。

 「よく覚えてます。夕方になるまで玄関の辺りで遊んでいると『向こうへ行ってなさい』なんてお姐さんに言われて、追い払われるんです」

 戦後の赤線時代を語る豊和さんは、売春防止法が施行された昭和33(1958)年は8歳だった。このとき、かみなか楼は「旅館かみなか」へ転業して営業を再開する。

 「私の父は遊廓だった頃のことを話したがりませんでした。旅館になってから建物にも手を入れて、一部を改築したんです。私はなぜか興味があったので、もっと遊廓時代のことを聞きたかったですね」

 子供の頃に育った妓楼建築に思い入れがあった豊和さんは、旅館の経営を引き継ぐと、一部を元の妓楼建築に改修し直したのだという。

 それにしても、旅館は驚くほど保存状態の良い建物である。とても130年以上前の建物とは思えない。

明治21(1888)年創業の「旅館かみなか」(岐阜県高山市)。遊廓時代の面影を残す。国の有形文化財として登録されている=撮影・関根虎洸明治21(1888)年創業の「旅館かみなか」(岐阜県高山市)。遊廓時代の面影を残す。国の有形文化財として登録されている=撮影・関根虎洸
階段の手すりは建築当時(明治20年)のもの。建物の保存状態が素晴らしく一見の価値あり=撮影・関根虎洸階段の手すりは建築当時(明治20年)のもの。建物の保存状態が素晴らしく一見の価値あり=撮影・関根虎洸

 「父はテレビや映画の撮影で旅館を使わせてほしいと依頼があっても、建物が傷むからという理由でほとんど断ってしまうんです」

 4代目となる若旦那の剛司さん(43歳)の言葉を聞いて、建物の保存状態に納得した。

玄関入口。金屏風の前に生け花が置かれ、その奥に階段がある。床一面には赤絨毯が敷かれている=撮影・関根虎洸玄関入口。金屏風の前に生け花が置かれ、その奥に階段がある。床一面には赤絨毯が敷かれている=撮影・関根虎洸
「亀の間」。各部屋の入口には格子戸が設えられ、建具に異なるモチーフが施されている=撮影・関根虎洸「亀の間」。各部屋の入口には格子戸が設えられ、建具に異なるモチーフが施されている=撮影・関根虎洸
中庭を臨める2階の角部屋「竹の間」=撮影・関根虎洸中庭を臨める2階の角部屋「竹の間」=撮影・関根虎洸
交互に設えた乳白ガラスと透明の波打ちガラス。光のグラデーションが障子の引き戸に反射する=撮影・関根虎洸交互に設えた乳白ガラスと透明の波打ちガラス。光のグラデーションが障子の引き戸に反射する=撮影・関根虎洸

大空と芸道を駆け抜けた上仲鈴子の人生

「旅館かみなか」は計8部屋。JR高山駅から徒歩3分=撮影・関根虎洸「旅館かみなか」は計8部屋。JR高山駅から徒歩3分=撮影・関根虎洸

 旅館かみなかの大広間で高山伝統の「お座付き」が始まった。お座付きは、唄や三味線、踊りで宴席をもてなす高山伝統のおもてなし文化だが、旅館の当主である上仲豊和さんは日本舞踊宗家西川流の西川歳二郎として、また若旦那の上仲剛司さんは西川剛歳としての顔を持つ。

上仲豊和さん(左)、剛司さん親子による高山伝統の「お座付き」が披露された=撮影・関根虎洸上仲豊和さん(左)、剛司さん親子による高山伝統の「お座付き」が披露された=撮影・関根虎洸

 豊和さんは子供の頃から叔母に当たる民之助の三女、鈴子に長唄や日本舞踊を習っていた。そして旅館の資料に目を通している時に、岐阜新聞に掲載された上仲鈴子の記事が目に留まった。「ぎふ・快人伝」と題されたページの見出しタイトルは「飛騨高山に降り立った県内初の女性飛行士 上仲鈴子」と書かれている。

 掲載されたモノクロ写真には飛行機から身を乗り出した鈴子と握手を交わす父、民之助の姿が写っていた。私は鈴子の人生に強い興味を覚えた。

故郷高山へ降り立ち、父の上仲民之助と手を取り合う鈴子=昭和10(1935年)、旅館かみなか所蔵故郷高山へ降り立ち、父の上仲民之助と手を取り合う鈴子=昭和10(1935)年、旅館かみなか所蔵

 遊廓で妓楼を経営する家に生まれた鈴子は、幼い頃から長唄や日本舞踊を習う活発な少女だった。『飛行家をめざした女性たち』(平木国夫、新人物往来社、1992年)によれば、鈴子は親の言いなりで嫁ぐつもりもなく、廓の仕事を手伝うわけでもなく、千葉県にあった日本軽飛行機倶楽部へ入会した。

 そして翌年には19歳で2等飛行機操縦士の免状を取得すると、21歳の若さで東京─大阪間の単独無着陸行に成功する。この記録は日本人女性初の快挙だった。

 そして2年後の昭和10(1935)年には、郷土訪問飛行として晴れわたる故郷高山の大空で旋回を繰り返し、上野平(うわのだいら)の仮設飛行場に着陸した。この時、1万人余の観衆が集まったという。その中にはかつて飛行士になることに反対していた父、民之助の姿もあった。

 しかし郷土訪問飛行を終えた鈴子は23歳の若さであっさりと飛行機を降りてしまう。理由は2つあった。1つは飛行訓練中の事故によって同乗した同僚が大怪我を負ってしまったこと。もう一つは女性飛行士には1等飛行機操縦士の免状が交付されないことだった。まだ女性に参政権もない時代のことである。

 飛行機を降りた鈴子は、幼いころから稽古を続けてきた伝統芸能に没頭する。やがて長唄と三味線、日本舞踊の名取となり、多くの弟子を持つようになった。

 そしてもう一つ、鈴子には個性的な一面があった。鈴子は髪を短く整え、外出する際は背広か袴姿。男性と見間違う風貌だったのである。やがて鈴子は男性に交じり、地方(ぢがた)として女人禁制とされる老舗劇場の舞台にも出演する。しかし同業者から鈴子が女性であることを密告されてしまい、その後は大きな劇場の舞台へ上がることはなかったという。

西川歳造(上仲鈴子、右)と西川流宗家人間国宝の西川扇藏。演目は『二人猩々』=

昭和35(1960)年〜昭和40(1965)年ごろ、旅館かみなか所蔵西川歳造(上仲鈴子、右)と西川流宗家人間国宝の西川扇藏。演目は『二人猩々』=昭和35(1960)年〜昭和40(1965)年ごろ、旅館かみなか所蔵

前列中央が鈴子。左の少年が三代目の上仲豊和氏=

昭和36(1961)年ごろ、旅館かみなか所蔵前列中央が鈴子。左の少年が3代目の上仲豊和氏=昭和36(1961)年ごろ、旅館かみなか所蔵
 世界はようやく多様性を認めて、LGBT(性的マイノリティ)の可視化が求められる時代になった。

 昭和48(1973)年、上仲鈴子氏逝去。享年60歳。

 遊廓に生まれ、大空と芸道を駆け抜けた上仲鈴子の人生に思いを馳せながら、私は大広間で披露された「お座付き」を眺めていた。

昭和5年に刊行、『全国遊廓案内』

『全国遊廓案内』(復刻付録版、カストリ出版)『全国遊廓案内』(復刻付録版、渡辺豪編、カストリ出版)
 遊廓の一次資料として知られる『全国遊廓案内』(日本遊覧社、1930年)によれば、「花岡遊廓の妓楼は12軒。娼妓は52人いる」と記されている。1888年に貸座敷4軒と19人の娼妓が在籍する遊廓として設置された花岡遊廓は、妓楼と娼妓の数が少しずつ増えていったことが分かる。

 『全国遊廓案内』は東京・吉原遊廓から沖縄那覇市の遊廓に至る全国260箇所に及ぶ各地の遊廓について、街の雰囲気から店のシステムや料金などを詳細に記録したガイドブックであり、当時は日本の植民地だった台湾・朝鮮・関東州の遊廓も収録されている。

 好事家によって古本市場では高値で売買されていたことから、私も以前は国会図書館でコピーした資料を現地へ持参して利用していたが、2016年に『全国遊廓案内・復刻付録版』(渡辺豪復刻編)としてカストリ出版から再販された。付録記事として、昭和5(1930)年の発行から長きにわたり「発禁本」として信じられてきた通説に対し、発禁本の大家である城市郎氏や斎藤昌三氏らの精細な調査記録が記されているのも興味深い。またデジタル版もあるのでスマートフォンにダウンロードして読めるのも便利だ。