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追悼・渡邉みどりさん──美智子さまの自己実現と戦後を伝えた本気度

矢部万紀子 コラムニスト

 渡邉みどりさんが亡くなった。88歳だった。1934年、正田美智子さん(現在の上皇后さま)と同じ年に生まれ、59年、日本テレビのディレクターとして、皇太子さま(現在の上皇さま)と美智子さまの結婚パレードを中継。以来、美智子さまを追い続けた。ゆかりの人々(皇族、正田家、友人etc.)を取材し、その生き方をテレビで、活字で、語り続けた。

2007年渡邊みどりさん1990年に日本テレビを退職し、以後はフリーのジャーナリストとして皇室を見つめ続けた=2007年

 皇族には記者会見の場はあるが、ごく限られた機会だ。しかもメディアを通して流れることが前提だから、どうしても「よそ行き」の言葉になってしまう。だから渡邉さんはそうではない美智子さまの「本音」、というより「心」を伝えようとしたのだと思う。

 そのための手段の一つが服装で、徹底して美智子さまを見つめ続けた結果として、「この日のお召し物は、実はこの時にも着ていて、少しデザインを変えたもの」などという「着回し」の概念を打ち出した。それは今でも女性週刊誌やネットメディアで多用され、皇室報道の定番になっている。

 著書『美智子さま 貴賓席の装い』(97年)は、ドレスに着物、帽子などの小物まで、定点観測の集大成。たとえば「ともに歩まれた紅白梅の着物」という章で渡邉さんは、62年に撮影された皇太子ご一家(現在の上皇ご夫妻と天皇陛下)の写真を取り上げる。

 まずは「親子同居を実行した皇室新時代を告げる貴重なお写真」と解説し、視点を美智子さまの着物のディテールに移す。身頃にも袖にも鮮やかな梅の柄が入っている。そして、①新婚時代を過ごした東宮仮御所に前田青邨(せいそん)の「紅白梅」がかかっていた、②京都の北出工芸に「この絵のように」と注文した、③前田は香淳皇后の絵の師だった──という情報を披露、こう続ける。「この和服を美智子さまはことのほかお気に召し、二十回以上もお召しになり、筆者も取材で三回ほど拝見した」。観察し、直接見て、また観察する。それが渡邉さんだった。

美智子さまの詠んだ歌に注目

皇室ジャーナリスト・渡邊みどりさん渡邊みどりさんは、美智子さまの服装や歌にも注目して「心」を読み解こうとした
 もう一つ、渡邉さんが注目したのが、美智子さまの詠んだ歌だ。美智子さまには『瀬音』(97年)という歌集があり、『新・百人一首 近現代短歌ベスト100』(2013年)にも一首が選ばれた一流の歌人だ。渡邉さんは、中でも69年の歌会始(お題は「星」)に詠んだものが印象深いと語っていた。

 <幾光年太古の光いまさして地球は春をととのふる大地>

 地球を「星」と見立てることは今でこそ当たり前だが、その当時はとても新鮮で、スケールの大きさに感動した。美智子さまは素晴らしい皇后になると予感した。そう語っていた。『貴賓席の装い』の梅の着物の記述では、結婚翌年のこの歌を取り上げていた。

 <つばらかに咲きそめし梅仰ぎつつ優しき春の空に真むかふ>

 解説がこう続く。「美智子さまがいかに梅の花を愛でていらっしゃるかが伝わってくる御歌だ。また、産後の養生の合い間に詠まれたこの御歌は、美智子さまの日々の精進をよくあらわしている」。お妃教育以来、美智子さまの和歌の師だった五島美代子さんを渡邉さんは何度も取材していた。

宮内庁職員組合文化祭美術展に出展された皇后さまの歌会始御懐紙「平成二十五年歌会始御歌(御題『立』)」2013年宮内庁職員組合文化祭美術展に出展された皇后(当時)・美智子さまの歌会始御懐紙「平成二十五年歌会始御歌(御題『立』)」=2013年

昭和天皇の戦争責任をさらりと口に

日本テレビプロデューサーの渡辺みどりさん/これ既製服です1971年日本テレビのプロデューサー時代=1971年
 熱心な取材に基づいた、厚みのある報道。加えて女性の少なかった当時のマスコミ業界で、渡邉さんのつくる番組は独自性があった。だから視聴者に支持された。

 渡邉さん宅の本棚に並んだ、皇室特番の台本を見せてもらったことがある。

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