「死にたい」と語る人は凶悪犯罪の予備軍なのか
2022年10月24日
殺人を自殺と呼ぶことに反対したい。その理由は、自殺は殺人(他殺)とはまったく別のものだから。
こんな当たり前のことを、最近は声高に主張しなければならなくなった。もちろん「拡大自殺」という呼称について言っているのだ。
例えば7月に秋葉原無差別殺人犯の加藤智大死刑囚が刑死した時も、この語の提唱者である精神科医の片田珠美氏はこの事件を「典型的な拡大自殺」と語っていた。加藤死刑囚はもちろん犯行時に自殺を図っていないし、「死にたくてやった」とも言っていない。
仮に殺人犯が犯行後に自殺したのであれば、これを拡大自殺と呼ぶ余地はある。殺人後に「死ぬためにやった」と言っただけなら、自殺していないのだから、殺人と呼ばずに自殺と呼ぶのはおかしいだろう。それどころか今では、「死ぬためにやった」と言っていなくても拡大自殺と呼ばれるのだ。
おそらく新奇さから、こんな呼び方が広まるのだろう。けれどもそこに問題はないだろうか。
当たり前だが、自殺は決して他者を傷つける行為ではないし、犯罪でもない。本来自らを消すという言わば“控えめな”行為なのだ。それが無差別殺人という最悪の犯罪と同一視されてしまう。後に詳しく述べるが、前述した片田氏も自殺と他殺を表裏一体と考えている。彼女は「拡大自殺の予防対策は自殺対策と同じ」としている。
もちろんこの言葉を使っているのは片田氏だけではない。むしろこの言葉を広めている張本人はこうした専門家や評論家ではなく、マスコミと考えるべきだろう。この人ならその言葉を使うだろうという人に、コメントや分析を依頼して広めているのはマスコミだ。だからことさら提唱者やその言葉の使用者を責める気もない。
この呼び方が続けば、自殺の間違ったイメージがますます広まり、死にたいと語る人は凶悪犯予備軍扱いされるだろう。実際に新聞紙上で「拡大自殺予備軍は隣にいるから気をつけろ」などと呼びかける記事も出ている。
死にたい気持ちは、ようやく普通に語ることができるようになってきたのに、これではまた語りづらくなってしまう。
「拡大自殺」の定義は、提唱者の片田氏の著書によれば、
「絶望感から自殺願望と復讐願望を抱き、誰かを道連れに無理心中を図ること」(『拡大自殺』より)
となっている。
心中で親が子どもを殺すのは、もちろん許されない犯罪に違いないが、決して復讐心からではなく、残された子の行く末をはかなむからだ。だからこれはとてもあいまいな定義と言える。無差別殺人と心中を一緒に扱おうとするのは無理がある。しかしながら、この定義の吟味に時間を費やすのは避けたい。
今のところ日本では、拡大自殺という言葉は、主に自暴自棄の無差別殺傷(未遂)事件に対して用いられている。この記事でも、心中よりそれらを念頭に置いて考える。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください