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『ある男』石川慶監督に聞く──「映画祭への出品とヒットを両立させたい」

林瑞絵 フリーライター、映画ジャーナリスト

 とある地方の町に現れた無口な男、大祐(窪田正孝)は、文房具屋を営むシングルマザー、里枝(安藤サクラ)の夫になる。だが、大祐は不慮の事故で帰らぬ人に。法要の場で里枝に初めて会った彼の兄は、遺影を見て「別人」だと告げた。弁護士の城戸(妻夫木聡)は、里枝から大祐の身元調査を依頼され、不可解な事件に足を踏み入れる。

 映画『ある男』の原作は芥川賞作家、平野啓一郎の同名ベストセラー小説。『愚行録』『蜜蜂と遠雷』などで知られ、国内外の映画祭で評価される大型の実力派、石川慶監督が、重厚なヒューマン・ミステリーに仕立てた。身元が特定できない“ある男”とは何者か。“人間のアイデンティティ”は、どれほど確たるものなのか。この作品は一見平穏に見える社会の裂け目の先に広がる深遠な場所へ、観客を連れてゆくだろう。

ある男  11月18日(金)全国ロードショー
2022「ある男」製作委員会配給:松竹
『ある男』  11月18日(金)全国ロードショー ©2022「ある男」製作委員会 配給:松竹

 本作は2022年9月のベネチア国際映画祭オリゾンティ部門でワールドプレミア(世界初)上映され、10月の釜山国際映画祭ではクロージング作品に選出された。11月に入っても、スペインのバルセロナで開催されたアジアン・フィルム・フェスティバル・バルセロナで監督賞を受賞するなど、嬉しいニュースが続く。日本のメジャー映画会社「御三家」のひとつである松竹が、世界の映画シーンで結果を出した作品としても記憶したい。

 11月18日からいよいよ満を持して日本で劇場公開となる。ベネチアは長編デビュー作『愚行録』以来、二度目の参加となる石川監督に、現地で『ある男』製作の裏側について話を伺った。

ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門に『ある男』を出品した石川慶監督=撮影・林瑞絵ベネチア国際映画祭オリゾンティ部門に『ある男』を出品した石川慶監督=撮影・林瑞絵

──ベネチアのオリゾンティ部門は作家性の強い作品を選ぶことで定評があります。『ある男』は松竹製作のオールスターキャスト作品で国内向けでもありますから、国内外の両方にアピールできる作品は珍しいと思いました。そのあたりはいかがお考えですか。

石川 日本の大手で映画を作ること自体が、国際映画祭から遠ざかる傾向にあることは認識しています。脚本、キャスティング、出資などにコマーシャルなものが入ってきやすく、毎回悩ましいところです。これがいつも映画を作る時のジレンマでもあり、国内での興行を考えると、映画祭のためにはマイナスなことをやらざるを得ないことも多い。しかし、今回は本当に実力派の俳優が集まってくれて、キャスティングがはまったと思っています。

──世界でも活躍され、国際映画祭でもよく出会えるような名優が揃いましたね。

石川 配役に対して妥協がないキャスティングを実現できたのが奇跡的でした。まず妻夫木さんがドンと決まったのが大きいですね。彼とは3回目ですが、まず妻夫木さんが決まると、毎回他の役者さんが「それなら変な作品じゃないよね」と言ってくれます。「真面目な作品だろうから、スケジュールもある程度開けましょう」となるのです。

©2022「ある男」製作委員会©2022「ある男」製作委員会

──俳優としての妻夫木さんのどこに魅力を感じて、またお仕事をしたいと思われたのですか。

石川 今回もすごく難しい役じゃないですか。基本的には、弁護士として身元調査をするなかでいろいろな人の話を聞く役ですから「狂言回し」と言えます。途中で前に出過ぎると、物語の進行を阻害してしまいますから。でも、最後には中心に躍り出てこないといけない。そういう意味では1シーン、1シーンを演じていくよりも、監督に近い目線で全体を俯瞰して作品の構成を話せる人でないと成立しないのです。妻夫木さんは個人的にそういう話ができる唯一と言ってもいいぐらいの俳優です。彼とはそういう関係性を築けるので、すごく安心感があるんです。

©2022「ある男」製作委員会©2022「ある男」製作委員会

アイデンティティって意外と脆い

©2022「ある男」製作委員会©2022「ある男」製作委員会

──今回は有名作家、平野啓一郎さんの原作ですね。

石川 もともと平野さんの小説が好きで読んでいましたが、抽象的で哲学的な話が多かったので、映画化は難しいと感じていました。ところが『空白を満たしなさい』『マチネの終わりに』あたりで多くの読者に門戸を開き始めた感があり、「今のタイミングだったらできるのでは」と思いました。ただ、「面白い話」だけでは他の監督が撮っても面白くなるだろうし、別に自分がやらなくてもいいと思っていて。自分が映画にする意義・意味がある「ポイント」が少しでもある作品を、いつも原作として選びたいと思っています。

──今回はそのような挑戦しがいのある原作で、映像も浮かんだということでしょうか。

石川 そうですね。具体的に映像は浮かんだのですが、背景にあるテーマはやはり抽象的なので、普通に映像化をしただけなら、そこが抜け落ちてしまうとも思いました。今回は「(身元不明の)男の正体がわかりました」とか「息子も成長しました」とか、そういう話だけになる危険性もある中で、物語の向こう側にある「アイデンティティの問題」を映像に落とし込まないといけないので、難しい映画化になると思いました。そもそも平野さんの原作も、その(アイデンティティの)問題を書こうとしていたと認識していましたから。

──エンタメ性はありつつも、「消費して終わり」ではなく、鑑賞後の心に深い刻印を残す作品でした。そのアイデンティティの問題では、戸籍交換を仲介する「身元のブローカー」が登場しますね。

石川 我々は「戸籍」というのが動かない事実のように思っていますが、戸籍がなくて宙ぶらりんになっている人は想像以上にたくさんいます。戸籍は細かなチェックもなく意外に簡単になくなるし、昔の戸籍になると管理がすごくいい加減だったりする。そのことを告発したいと思って映画を作ったわけではありませんが、「アイデンティティって意外と足元が脆いよね」ということの証左が戸籍だろうと思っています。

──現在、日本社会で生きるのはしんどい面があって、逃げたくなる人も多いと思います。「身元をなくしたい」「過去をなくしたい」と考える人は今後も増える気がしますから、現代的なテーマだと感じました。

石川 私は1977年生まれですが、我々の世代って「個性を大事にしましょう」などと盛んに言われてきたわけです。でも

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