あまりにも奇妙な死刑に対する怖れのなさ
2022年11月21日
「死刑になりたかったからやった」と犯行の動機を語る殺傷(未遂)犯を、あまりにも多く目にするようになった。そうした発言は毎度深刻に受け止められ、大々的に報じられている。
けれども自分は、これまでに語れたのとはまったく違う受け止め方をしている。つまりこうした言葉は、それほど真剣に語られたものではないのではないか。時には嘘に近いのではないか。そうした言い方が、いわば“流行っている”だけなのではないか。
大きな犯罪が起きれば、誰もがその理由を知りたがる。そこで容疑者が「死刑になりたかったから」と語れば、待ってましたとばかりにそれがあたかも事の真相であるかのように報道される。
確かにそう語ったのだろうし、死にたい気持ちもあったのだろう。けれどもそれが、本当に心の底にあった動機と受け取られていいのか。
もちろんその言葉があってもなくても、そうした犯罪の原因として孤立や貧困など社会の問題を考えるのもいい。けれども「拡大自殺」がそうであるように(前回の「『拡大自殺』という言葉の乱用に異議あり!」参照)、この言葉をこんなにまで広めることも、死にたい人の心性をことさら危険なもののように誤解させないか心配になってしまう。
まずは犯罪心理学の専門家である原田隆行教授の意見から紹介しよう。彼は多くの重大犯罪の加害者と拘置所で面会した体験からこう言う(プレジデントオンライン『マスコミが模倣犯を育てている』)。
「なかには『死刑になりたかった』などと口にする者もいるが、その大半は、深く考えずに『適当に』言っているにすぎない」
「大事件を起こした直後に容疑者が漏らした言葉を、なぜそのまま真に受けるのだろうか。容疑者はいろいろと嘘をつくし、不正確なことをたくさん言う」
今年の8月に渋谷で通り魔事件を起こした中3の少女も、「死刑になりたかったから」と語った。けれども彼女は「母と弟を殺す練習としてやった」とも語ったし、そもそも18歳未満には日本では死刑は適用されない。
この発言も「拡大自殺」と騒がれたが、さすがにこれについてはある捜査関係者も、「別の動機があった可能性」を指摘した(文春オンライン「渋谷で母娘を刺した中3少女」)。犯行の動機を聞かれても、ニュースで聞いたことがある台詞を言うだけで、本心は別にある子どもはよくいるそうだ。これは子どもに限ったことだろうか。
自分にも本気で死にたいと思ったことがあった。もちろん自殺することには抵抗があった。けれども「死にたい」という思いと「死」という結果をつなぐために、やりたくもない殺人という大犯罪をその間に差しはさむなどということは想像を絶する。そのためにやりたくもないのに武器を調達したり、綿密な計画を立てたりすることについても同じだ。
「死にたくて、死刑になるためにやった」という論理は、本来誰もが受け入れがたいものだろう。それなのにメディアがあまりにも疑わないので、疑問も言えずにいるのではないか。
心から死にたいと願う人は、間違いなくまずは自殺を考える。「死刑になりたかった」犯人たちは、自殺ではなく死刑という手段で死のうと決心し、やりたくもない殺人を犯そうと思ったわけだ。それを受け入れるためには、まず自殺ができない納得のいく理由を聞かなければならない。
もちろんこの論考の意図は、犯人の言葉の真偽を検証することで、自殺をしろなどと主張するものではない。それは強調しておきたい。
また、自殺は怖いのに死刑が怖くないのはなぜなのだろう。例えば首吊り自殺と日本で行われる絞首刑は、特に何も変わらない体験だと言っていいのだから。
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