日本のアニメーションを支え続けた功労者
本年10月1日、去る8月14日に中島順三さんが死去されていたことが広く知らされた。それまでは一部の関係者のみに伝えられていたが、ご遺族によってご本人のSNS上で告知された。享年84歳だった。
中島さんは約50年間、様々なアニメーション作品のプロデューサーを務めてきた。テレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)、『母をたずねて三千里』(1976年)、『赤毛のアン』(1979年)では高畑勲監督を支え、『未来少年コナン』(1978年)では宮崎駿監督を支えた。また、『フランダースの犬』(1975年)以降の「世界名作劇場」シリーズ各作のプロデューサーを20年以上にわたって歴任した。

中島順三さん=2019年4月13日、「中島順三 写真展」にて、撮影・筆者
中島さんが参加した作品群が、外国の児童文学を原作としたテレビアニメーションのシリーズを日本に根付かせたと言ってよい。それまでは派手で奇抜なロボットの格闘やモンスター退治、スポーツ選手の立志伝、魔法を駆使したファンタジーなどが「テレビアニメ」の必須条件だった。実在の地域に暮らす人々の日常と喜怒哀楽を丹念に描くシリーズは革新的だった。未だに多くの日本人が、これらの作品のご当地巡りを海外観光に組み込んでいる。その影響力は広く世界に浸透しており、功績は比類がない。
アニメーション作品のプロデューサーの職域は幅広い。完成披露などの公の場で「自分の作品」と宣布して胸を張るプロデューサーは数多い。それは完成までの艱難辛苦をスタッフと共に走り抜け現場を支えた矜持であり、質的な保証の責任を担う役割も兼ねた発言でもあるだろう。
しかし、中島さんからはそうした高言を聞いたことがない。制作現場を全てに優先させることを第一に考えていた方だった。何度も取材をさせていただいたが、記事の校正時にご自身の仕事にまつわる箇所を「削ってください」と依頼されることが多かった。日頃から「現場で頑張ったのはメインスタッフの人たち。自分の仕事は裏方だから」と語っていた。
「裏方」にも色々ある。中島さんは現場の制作管理・調整はもとより、原作者・権利者・スポンサー・テレビ局との交渉や謝罪、スタッフへの気配り、ロケーション・ハンティングでの撮影から作品のタイトルロゴの制作まで、まさに前線の指揮官と兵士を兼務し誠心誠意、作品制作に専心された方だった。