2022年11月21日
本年10月1日、去る8月14日に中島順三さんが死去されていたことが広く知らされた。それまでは一部の関係者のみに伝えられていたが、ご遺族によってご本人のSNS上で告知された。享年84歳だった。
中島さんは約50年間、様々なアニメーション作品のプロデューサーを務めてきた。テレビシリーズ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)、『母をたずねて三千里』(1976年)、『赤毛のアン』(1979年)では高畑勲監督を支え、『未来少年コナン』(1978年)では宮崎駿監督を支えた。また、『フランダースの犬』(1975年)以降の「世界名作劇場」シリーズ各作のプロデューサーを20年以上にわたって歴任した。
中島さんが参加した作品群が、外国の児童文学を原作としたテレビアニメーションのシリーズを日本に根付かせたと言ってよい。それまでは派手で奇抜なロボットの格闘やモンスター退治、スポーツ選手の立志伝、魔法を駆使したファンタジーなどが「テレビアニメ」の必須条件だった。実在の地域に暮らす人々の日常と喜怒哀楽を丹念に描くシリーズは革新的だった。未だに多くの日本人が、これらの作品のご当地巡りを海外観光に組み込んでいる。その影響力は広く世界に浸透しており、功績は比類がない。
アニメーション作品のプロデューサーの職域は幅広い。完成披露などの公の場で「自分の作品」と宣布して胸を張るプロデューサーは数多い。それは完成までの艱難辛苦をスタッフと共に走り抜け現場を支えた矜持であり、質的な保証の責任を担う役割も兼ねた発言でもあるだろう。
しかし、中島さんからはそうした高言を聞いたことがない。制作現場を全てに優先させることを第一に考えていた方だった。何度も取材をさせていただいたが、記事の校正時にご自身の仕事にまつわる箇所を「削ってください」と依頼されることが多かった。日頃から「現場で頑張ったのはメインスタッフの人たち。自分の仕事は裏方だから」と語っていた。
「裏方」にも色々ある。中島さんは現場の制作管理・調整はもとより、原作者・権利者・スポンサー・テレビ局との交渉や謝罪、スタッフへの気配り、ロケーション・ハンティングでの撮影から作品のタイトルロゴの制作まで、まさに前線の指揮官と兵士を兼務し誠心誠意、作品制作に専心された方だった。
中島さんは2013年から2014年にかけて、スタジオジブリ発行の月刊誌『熱風』に連載「テレビアニメーションが到達したひとつの頂上 『アルプスの少女ハイジ』とその時代」と題した連載を持たれていた。
中島さんは、日本大学藝術学部写真学科在学中に新東宝の映画スチールカメラマンのアルバイトを始め、東映の宣伝カメラマン、アニメーション編集、CM制作を経て、盟友・佐藤昭司氏と共にプロデューサーに就任した。連載はそうした若い頃の遍歴から全力で取り組んだ『アルプスの少女ハイジ』、そして『赤毛のアン』に至るまで、貴重な証言が綴られていた。
しかし、この連載は現在まで書籍化されておらず、まとめて読むことは難しい。その理由を伺ったところ、中島さんは「途中で終わっている印象だし、本にできるような内容とは思えない」とおっしゃっていた。「1980年代以降の仕事を含めて加筆して、本にまとめられてはどうでしょうか」と勧めたこともあるが、中島さんは「当時は忙しすぎて記憶が曖昧なので、記録として正確ではないかも知れない」と極めて慎重だった。
当時の中島さんがどれほど多忙だったかを物語る挿話がある。
『赤毛のアン』の準備中、主題歌と音楽担当が決まらず暗礁に乗り上げていた。その頃、中島さんが偶然観た映画『翼は心につけて』(1978年、堀川弘通監督)の主題歌が打開策となり、音楽界の巨匠・三善晃さんの起用が決定した(※)。
(※)以下を参照のこと。
「すべてが幸運だった高畑勲監督『赤毛のアン』プロデューサー・中島順三氏が語る制作秘話」
この時、中島さんは放送中の『未来少年コナン』と『ペリーヌ物語』のプロデューサーを掛け持ち、同時に『赤毛のアン』の準備にも携わっていた。3作品とも作り込まれた力作であり、長いキャリアの中でも最も多忙な時期であった。
「よく映画を観る時間が作れましたね」と問うと、中島さんは「疲れて夜遅く帰る途中だったと思う。気晴らしに映画を観たかったわけではなく、何か一つでもヒントがないかと思い、藁にもすがる心境で映画館に入った。映画の内容は全く憶えていない」と答えた。
『翼は心につけて』は骨肉腫で亡くなった中学生の少女の実話に基づいた小説を映画化した作品で、一般的には落涙の感動作として知られる。中島さんが「念のため、もう一度観てみたい」とおっしゃるので、DVDをお貸しして観ていただいた。その結果は「やっぱり最後にかかる主題歌以外は何も憶えていなかった。『アン』のことしか考えていなかったんだと思う」とのことだった。まさに、より良い作品を作り出すために全てを捧げる生活であったのだろう。
なお、岸田氏は『ハイジ』の他にも『フランダースの犬』『あらいぐまラスカル』『赤毛のアン』の主題歌作詞も手がけている。
プロデューサーは、「ギリギリまで質を追求したい」と粘るスタッフの都合と「予算・納期厳守」というクライアントの都合の板挟みになる宿命を背負う。過労や病気で体調の優れないスタッフには療養と自重を促すものの、その一方で仕事の催促もしなければならない。それでも制作遅延や視聴者の不評が生じれば、責任者として各所の謝罪に回らなければならない。まさに日々が矛盾であり、精神的体力的にも疲弊する。中島さんが関わった作品の多くが、連日連夜そうした窮地の連続だった。それでも、仕事を続けるのは少しでも良い作品を残したいという一念だった。
こんなこともあった。
2016年12月17日、イタリア文化会館で開催された「マルコの世界 小田部羊一と『母をたずねて三千里』展」の高畑勲監督トークショーでのことだ。「制作がうまくいかなかった時は?」という質問に、高畑監督は次のように答えた。
この時、ちょうど中島さんと同席していたので、当時のお話を伺ってみた。すると、
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