前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【52】「船乗り」をテーマに量産された昭和歌謡が持つ数々の特異性を探る
「別れのブルース」 1937(昭和12)年
作詞・藤浦洸、作曲・服部良一
歌・淡谷のり子
昭和歌謡には、「船乗り」をテーマに量産された「マドロスもの」と呼ばれる一大ジャンルがあり、私はかねてから、その特異性に強い関心を抱いてきた。
特異性の一つは、戦前の昭和6(1931)年から日本が英米と戦端を開くまでの約10年間と、戦後の昭和30年代の同じく約10年間に、流行が“二子山”になっていることである。
しかも、戦後の流行の量が半端でない。『昭和歌謡全曲名-昭和流行歌総索引-戦後編』(柘植書房新社、2006)にあたってみたところ、昭和30年代にリリースされた、タイトルに「マドロス」が入っている曲だけでなんと53。歌詞まではあたりきれないが、これに「波止場」「出船」「船出」のタイトル曲を加えると、実際の「マドロスもの」はその2、3倍はありそうである。
ちなみに“マドロス歌手”の一人でもあった美空ひばりは、昭和30年代に13曲もの「マドロスもの」を発表しているが、そのうち「港町十三番地」(昭和32<1957>年)など6曲のタイトルには「マドロス」がついていない。
また、「《昭和懐メロ名曲集》懐かしの港歌・マドロス演歌」(CD5枚組)には90曲が収録されているが、そのうちタイトルに「マドロス」を冠した曲は「恋のマドロス」(高倉敏)「マドロスの唄」(岡晴夫)「君はマドロス海つばめ」(美空ひばり)などわずか5曲にすぎない。したがって、昭和30年代には、少なくとも200曲をこえるマドロスものが誕生したのではないかと推測される。よく言えば百花繚乱、見方をかえれば粗製乱造である。
「マドロスもの」の特異性はまだある。船乗りたちの数は、戦後の最盛期でも、内航・外航あわせて10万人に及ばない。その家族や関係者を入れても“当事者”たちはせいぜい30〜50万人だったであろう。
ほぼ同じ時期に日本を支えた炭鉱と運輸関連の労働者は、その数倍はいたのにもかかわらず、この時期に彼らをテーマにした歌謡曲は「俺ら炭坑夫」(三橋美智也、昭和32年)、「炭鉱もぐら」(小林旭、昭和35年)、「鉄道行進曲」(藤山一郎他、昭和27年)「エアガールの唄」(菊池章子、昭和26年)など、それぞれ10曲前後にとどまっている。
当該産業の従事者数とそれをテーマにした歌謡曲の比率でいうと、「マドロスもの」は桁が外れている。
特異性はこれだけではない。
本稿を起こす前に、筆者の問題意識がどれだけ読者に共有してもらえるかが気にかかり、以下のアンケートを私の友人とその家族に試みた。
1、「マドロス」の意味を知っているか
2、かつて「マドロス物」が歌謡曲の一大ジャンルだったことを知っているか
われながら驚くべき結果となった。
43の回答が寄せられたが、40歳以下17人のうち3人は「マドロス」という言葉は知っていたが、全員が「マドロス歌謡」の存在を知らなかった。一方、残りの50代後半以上は、1人をのぞいて「マドロス」も「マドロス歌謡」も知っていた。どうやら、「マドロスもの」の認知には、団塊ジュニアあたりに分水嶺があるようだ。
美空ひばりでいうと、昭和36年5月に「鼻唄マドロス」をリリースしてから、しばらくは「マドロスもの」はうたっておらず、10年後の昭和46年3月に「新宿波止場」が最後で、それも新宿を港に、客をマドロスに見立てたものだ。ちょうど団塊ジュニアが誕生した時期にあたっている。
いずれにせよ、今や日本人の多くにとって、「マドロス」は死語であり、「マドロス歌謡」も懐メロをとおりこして「忘却の歌」、「昭和の歌謡遺産」と化しているらしい。
おそらく、これほど多くの際立った特異性をもった昭和歌謡の独立峰はないであろう。これは、いったいこれは何を意味するのか。ひょっとして戦前と戦後における、日本社会の転換点を指し示す指標の一つではないかと、筆者の「マドロス物」への関心はますます深まった。
それでは、「マドロスもの」の検証にかかろう。まずは日本の近代化と深く関わっていると思われる幕末維新以降の長い「前史」から物語るとしよう。