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戦争を生き延びた「マドロスもの」とブルースの女王・淡谷のり子 前編

【52】「船乗り」をテーマに量産された昭和歌謡が持つ数々の特異性を探る

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

「別れのブルース」 1937(昭和12)年
作詞・藤浦洸、作曲・服部良一
歌・淡谷のり子

 昭和歌謡には、「船乗り」をテーマに量産された「マドロスもの」と呼ばれる一大ジャンルがあり、私はかねてから、その特異性に強い関心を抱いてきた。

淡谷のり子さん (当時82歳)=1990年2月23日

戦前と戦後で二度の大流行

 特異性の一つは、戦前の昭和6(1931)年から日本が英米と戦端を開くまでの約10年間と、戦後の昭和30年代の同じく約10年間に、流行が“二子山”になっていることである。

 しかも、戦後の流行の量が半端でない。『昭和歌謡全曲名-昭和流行歌総索引-戦後編』(柘植書房新社、2006)にあたってみたところ、昭和30年代にリリースされた、タイトルに「マドロス」が入っている曲だけでなんと53。歌詞まではあたりきれないが、これに「波止場」「出船」「船出」のタイトル曲を加えると、実際の「マドロスもの」はその2、3倍はありそうである。

 ちなみに“マドロス歌手”の一人でもあった美空ひばりは、昭和30年代に13曲もの「マドロスもの」を発表しているが、そのうち「港町十三番地」(昭和32<1957>年)など6曲のタイトルには「マドロス」がついていない。

 また、「《昭和懐メロ名曲集》懐かしの港歌・マドロス演歌」(CD5枚組)には90曲が収録されているが、そのうちタイトルに「マドロス」を冠した曲は「恋のマドロス」(高倉敏)「マドロスの唄」(岡晴夫)「君はマドロス海つばめ」(美空ひばり)などわずか5曲にすぎない。したがって、昭和30年代には、少なくとも200曲をこえるマドロスものが誕生したのではないかと推測される。よく言えば百花繚乱、見方をかえれば粗製乱造である。

 「マドロスもの」の特異性はまだある。船乗りたちの数は、戦後の最盛期でも、内航・外航あわせて10万人に及ばない。その家族や関係者を入れても“当事者”たちはせいぜい30〜50万人だったであろう。

 ほぼ同じ時期に日本を支えた炭鉱と運輸関連の労働者は、その数倍はいたのにもかかわらず、この時期に彼らをテーマにした歌謡曲は「俺ら炭坑夫」(三橋美智也、昭和32年)、「炭鉱もぐら」(小林旭、昭和35年)、「鉄道行進曲」(藤山一郎他、昭和27年)「エアガールの唄」(菊池章子、昭和26年)など、それぞれ10曲前後にとどまっている。

 当該産業の従事者数とそれをテーマにした歌謡曲の比率でいうと、「マドロスもの」は桁が外れている。

「マドロス」は今や死語?

 特異性はこれだけではない。

 本稿を起こす前に、筆者の問題意識がどれだけ読者に共有してもらえるかが気にかかり、以下のアンケートを私の友人とその家族に試みた。

1、「マドロス」の意味を知っているか
2、かつて「マドロス物」が歌謡曲の一大ジャンルだったことを知っているか

 われながら驚くべき結果となった。

 43の回答が寄せられたが、40歳以下17人のうち3人は「マドロス」という言葉は知っていたが、全員が「マドロス歌謡」の存在を知らなかった。一方、残りの50代後半以上は、1人をのぞいて「マドロス」も「マドロス歌謡」も知っていた。どうやら、「マドロスもの」の認知には、団塊ジュニアあたりに分水嶺があるようだ。

 美空ひばりでいうと、昭和36年5月に「鼻唄マドロス」をリリースしてから、しばらくは「マドロスもの」はうたっておらず、10年後の昭和46年3月に「新宿波止場」が最後で、それも新宿を港に、客をマドロスに見立てたものだ。ちょうど団塊ジュニアが誕生した時期にあたっている。

 いずれにせよ、今や日本人の多くにとって、「マドロス」は死語であり、「マドロス歌謡」も懐メロをとおりこして「忘却の歌」、「昭和の歌謡遺産」と化しているらしい。

 おそらく、これほど多くの際立った特異性をもった昭和歌謡の独立峰はないであろう。これは、いったいこれは何を意味するのか。ひょっとして戦前と戦後における、日本社会の転換点を指し示す指標の一つではないかと、筆者の「マドロス物」への関心はますます深まった。

 それでは、「マドロスもの」の検証にかかろう。まずは日本の近代化と深く関わっていると思われる幕末維新以降の長い「前史」から物語るとしよう。

悪意をこめた蔑称として

 そもそも、「マドロス」とは「船乗り」を意味するオランダ語である。

 江戸の鎖国期には、約350ほどのオランダ語が日本語に定着、その半数がいまも使用されているとされる。もっとも多いのはアルカリ、アルコール、ギプス、ピンセット、メスなどの医学用語。それにつぐのはコンパス、タラップ、デッキ、マストなどの航海用語で、マドロスもその一つである。

 これらは技術用語であることから本来はニュートラルのはずなのだが、唯一マドロスにかぎっては、「蔑称」へと変容をとげる。

 明治期の新聞には、以下のように、外国人船員の無法ぶりを非難する文脈でしばしば用いられるようになる。

「一昨ばん横浜の前田橋通りにて英国の水夫が人力車夫に何をいったのか聞きとれないとて怒り出し無法にも車夫へ打てかかつて車を毀しそのさわぎに大変だと巡査が直に止めにはいると又々巡査へ打てかかり鈴木三等巡査と車夫へ疵を負わせ遂にその筋へ拘引に成つたがマドロスの乱暴にいつもいつも困ります。」(読売新聞、明治11<1878>年5月8日1面)

「珍らしくもない横浜で外国人の乱暴一昨日居留地前田橋通り百八十七ばんの酒屋で米国船の無茶苦茶マドロス散々くらい酔つて喧嘩を仕かけ窓の瓦羅斯(ガラス)は粉なごなに成つて飛び卓机はメチヤメチヤに毀れて潰れ手当り次第の大あばれ漸やく二人は拘引されたが跡のマドロスは行衛しれず文明国中の油虫には毎度ハヤ呆れかえへる。」(読売新聞、明治11<1878>年7月6日の3面)

 昭和に入ると、日本人の船員たちも「マドロス呼ばわり」されるようになる。

「二十日も一ケ月も走り続け、その上野郎同志の生活から自然粗暴になつてゐるマドロスの心が久し振りの入港に酒を求め肉を欲するのは無理のない事実である。」(読売新聞、昭和2<1926>年6月22日の2面)

 さらには、船員以外の「不埒(ふらち)な日本人」の代名詞にも使われるようになり、詐欺まがいのやり手の牛乳配達員が「マドロス」にたとえられている。

「奥様方はよく小児牛乳だ特別牛乳だと注文します。そこにつけいつて、白い瓶だつたら青い瓶に加へ、レツテルを二枚はつたり口金にしたりしてうまくやるのが即ちマドロスの技量なのです。」(読売新聞、昭和3<1927>年3月8日の3面)

「不逞な無法者」から「憧れの対象」へ

 このように、幕末以来70年以上も続いていた「マドロス」の受難がようやく解かれるときがやってくる。その評価は「不逞な無法者」から「かっこいい憧れの対象」へと180度の反転。その弾み車となったのが、他ならぬ「マドロス歌謡」の登場であった。

 その嚆矢(こうし)は昭和6年、後に“ブルースの女王”と呼ばれるようになる淡谷のり子が歌手デビューして2曲めにリリースした「マドロス小唄」とされるが、それを大きく後押しして、「マドロスもの」という独立峰を盛り上げる役割を果たしたものがある。それは日本で上映され人気を博した2本の外国映画の主題歌であった。

 前者は昭和7(1932)年に公開されたフランス映画「掻払いの一夜」の主題歌「マドロスの唄」で、こんな出だしだ。

♪生まれは巴里の屋根の下
育ちは世界の波の上
マドロス渡世のこの身にも
忘れられない恋がある

 後者は昭和9(1934)年に公開されたドイツ映画「狂乱のモンテカルロ」で、主題歌の「これぞマドロスの恋」はこんなイントロである。

♪これぞマドロスの恋
錨はくわせぬ俺の胸
めぐる港々に
花は咲く薔薇は咲く

 歌ったのは、両曲ともドイツでのオペラ修行から帰ったばかりの奥田良三(前者の「マドロスの唄」は矢追婦美子とのデュエット)。クラシック界の新星が流行歌をうたうという異色の組み合わせが大いに話題となって一世を風靡(ふうび)、後に奥田を国民的テノール歌手にする契機にもなった。

米寿のリサイタルで熱唱するテノール歌手の奥田良三さん=1991年6月12日、東京都新宿区神楽坂の音楽の友ホール

奥田良三の「これぞマドロスの恋」が火付け役

 とりわけ、「これぞマドロスの恋」の反響が大きかった。実は、映画「狂乱のモンテカルロ」では主題歌が2曲つくられた。レコード化されたA面には映画のタイトルのままの曲が、B面には「これぞマドロスの恋」が収められたが、この“おまけ”の方が“本命”よりも大ヒットしたのである。また、パイプをくわえるマドロススタイルは、この映画の登場人物から借用され、以後、定番のマドロススタイルとして戦後に引き継がれることになる。

 この事実からも、奥田良三の「これぞマドロスの恋」が、「マドロスもの」が昭和歌謡の独立峰となる火付け役になったことは間違いなかろう。

量産された“国産”の「マドロスもの」

 こうして「舶来」の映画主題歌が引金となって、翌昭和10(1935)年のディック・ミネの「波止場がらす」をかわきりに、“国産”の「マドロスもの」が量産されていく。

 昭和12(1937)年には、淡谷のり子「別れのブルース」、林伊佐緒・三浦房子「上海航路」、上原敏「波止場気質」、昭和14(1939)年には田端義夫「島の船唄」、岡晴夫「湊シャンソン」、霧島昇「月のデッキで」、昭和15(1940)年には東海林太郎「出船の夜」、上原敏「唄ふマドロス」と、当代一級の人気歌手たちが競うようにして歌い上げた。

 「マドロス」「波止場」「出船」「船出」などの関連タイトルをたよりに『昭和歌謡全曲名-昭和流行歌総索引-戦前・戦中編』(柘植書房新社、2006)にあたってみたところ、その数は、昭和12年からの3年間で、20〜30曲。ここに「マドロスもの」という独立峰ができあがったとみていいだろう。

 ちなみに、その中でも「マドロスもの」の典型とされる「港シャンソン」(作詞・内田つとむ、作曲・上原げんと)はこんな歌詞ではじまる。

♪赤いランタン 夜霧に濡れて
ジャズがむせぶよ 埠頭(バンド)の風に
明日は出船か 七つの海だ
別れ煙草が ほろにがい

日本の海運の好況とシンクロ

 なぜ、「マドロス歌謡」がわずか数年で戦前の歌謡界に独立峰を築くことができたのか。2本の外国映画の主題歌が引金になったからだけではない。それは重要ではあるが、きっかけの一つにすぎない。

 今から振り返ると、「歌は世につれ、世は歌につれ」たからである。

 実は、淡谷のり子が「マドロス小唄」でマドロス物誕生へ向け嚆矢を放った昭和6年とは、日本の海運にとって不況から好況への一大転換期にあたっていた。

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