前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【53】「望郷と永訣の歌」に変容した「別れのブルース」の悲しい物語り
「別れのブルース」 1937(昭和12)年
作詞・藤浦洸、作曲・服部良一
歌・淡谷のり子
「戦争を生き延びた『マドロスもの』とブルースの女王・淡谷のり子 前編」の最後でこう記した。
戦前の一時期、大ブームになった船乗り(マドロス)をテーマにした歌謡、いわゆる「マドロスもの」が戦後、大復活をはたすことができたわけは、昭和12(1937)年、淡谷のり子によってうたわれた「別れのブルース」にありそうだ、と。
後編では、この仮説を具体的に検証したい。結論からいえば、「別れのブルース」は間違いなく戦後の「マドロスもの」ブームの根っこにあった。だが、それはあまりにつらく、悲しい物語りに彩られていた。
★『戦争を生き延びた「マドロスもの」とブルースの女王・淡谷のり子 前編』は「ここ」から。
改めてこの曲のさわりとなる歌詞を以下に掲げる。
♪窓を開ければ港が見える メリケン波止場の灯がみえる
♪腕にいかりの入れずみほって やくざに強いマドロスの
♪二度と逢えない心と心 踊るブルースの切なさよ
「港町の女が一夜限りの情けを交わした外航船員との別れを惜しむ」という同工異曲の歌は、この曲以前にも以後にもたくさんつくられており、言ってみれば「マドロスもの」の定番。格別斬新な内容ではない。淡谷は数多くの自叙伝を書き残しているが、その中で母親から「浪花節みたい」と笑われ、自身も「ヒットするなんで全然思ってなかった」と記している。
また、メロディも「ブルース」と銘打ってはいるが、楽理的にはコード進行はブルースではない。かなり後の青江美奈の「伊勢佐木町ブルース」(昭和43年)や森進一の「港町ブルース」(昭和44年)もそうだが、曲名にある「ブルース」は「物悲しい曲」という程度のキャッチ―なタイトルでしかない。
そのことは、当初から淡谷自身も承知していて、「最初からピンとこなかった」。レコード会社も「最初はあまり乗り気ではなかった」。それが淡谷の予想も、レコード会社の読みもはるかに超えて売れてしまったのは、前編でも記したように、旧満州の前線の兵士たちの間で人気に火が着いたからだったが、そのヒットの本当の意味を淡谷が知るのは、皮肉かつ逆説的なことに、「別れのブルース」が公けにはうたえなくなってからであった。
「別れのブルース」が発売されて4年後の昭和16(1941)年、日本がアメリカと戦闘状態に入ると、「頽廃的」で「時局柄好ましくない」との理由から、淡谷のり子は持ち歌をすべて奪われる。
「別れのブルース」も放送禁止、レコードは発売禁止となり、いっぽうで“外地”への「皇軍慰問」を求められた。淡谷はそれを渋々受け入れたが、慰問先の最前線に赴くと、兵士たちから乞われたのは、当局から「歌うな」ときつく禁止されていた「別れのブルース」だった。
上海で兵士たちを前に慰問公演をしたとき、淡谷は生涯忘れられない体験をする。
禁止されている自分の持ち歌ではなく、あたりさわりのない曲を歌い終えて舞台を降りようとすると、会場のあちこちから「別れのブルースを」とのリクエストの声が上がった。淡谷が「軍からうたってはいけないと言われている」と断ろうとすると、兵士たちは、「構わない、うたってくれ」「おれたちは明日にも死ぬ身体だ、たのむから聴かしてくれ」と口々に叫んできかない。
淡谷が「罰をうけたって、かまうもんか」と意を決してうたい出すと、監視役として会場の最前列に座っていた将校たちの何人かはわざと居眠りをし、あるものはいつの間にか席を立って姿を消してしまった。
兵士たちは目に涙を浮かべ、淡谷の歌に聴きほれていた。歌い終えて会場の外へでると、なんと将校も廊下で泣いていた。
この時の体験を、淡谷はこう回顧している。
「私のうたう歌がこれほど感激的な場景を醸し出したのはあとにも先にも、かつて経験しなかったことである(略)いくら権力で圧迫しても、歌は生きていると、私はそのときもしみじみと感じた」