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マカロンは飴玉ではない。「翻訳」とは自分を新しくする営み

自動翻訳が進む時代に、異文化を考える意味

木内宏昌 演出家、劇作家、戯曲翻訳家

 海外の演劇を日本で上演する時、言葉の橋渡しをするのが翻訳家です。木内宏昌さんは、その第一線で活躍する一人。英語を日本語に置き換えるだけではない。わかりやすくしようと、日本の文化に引きつけ過ぎるのも違う。二つの文化の間に立って、思考する。そんな幅広い「翻訳」という営みについて綴ります。

森鷗外も向き合った「壁」

 翻訳ということについてお話しします。

 言うまでもなく、翻訳というのはある国の言葉を別の国の言葉に置き換えることです。この点は、もはや自動翻訳機が得意とする作業になりました。

 それからもう一つ、すんなりと置き換えができない外国語を外来語として表記するか、なんとかして自国のわかる言葉で表わそうとするかを判断して紹介するのも翻訳です。

 これとよく似た行為に通訳があります。通訳は話し言葉を扱うのに対して、翻訳は書き言葉を扱います。似ているとはいえ、「通す」と「翻す」ではだいぶ意味が違いますね。

 そんな「翻訳」についての話です。

 さて、2022年は森鷗外の没後100年でした。鷗外は翻訳家でもありました。

㊧森鷗外(1862〜1922)。㊨鷗外が翻訳した『ノラ』単行本(警醒社書店、1913〈大正2〉年)の扉(国立国会図書館デジタルコレクション)
 その翻訳作品の一つに、近代演劇の父と言われるイプセンの代表作『人形の家』があります。鷗外が活躍した文明開化の時代において翻訳をするということは、未知なる西洋文化を紹介する、つまり啓蒙するということでもありました。その意味で鷗外は近代演劇の紹介者の一人です。

 鷗外は『人形の家』をドイツ語から訳したそうですが、邦題は主人公の名をとって『ノラ』としました。鷗外はその『ノラ』の翻訳にまつわる愚痴を、『翻訳に就いて』という文章のなかにこんなふうに記しています。

 ノラが食べる菓子を予はマクロン(筆者註:マカロンのこと)と書いた。それを飴玉と書けと教へて貰った。(略)日本固有の物で、ふさはしいものにして書けと云う教であるが、予なんぞは務めて日本固有の物を避けて、特殊の感じを出さうとしてゐる。それもふさはしい物ならまだしもである。日本固有の物にして、しかもふさはしくないと来てはたまらない。

 誰が鷗外に「飴玉と書け」と言ったのかは明らかではありません。編集者か、もしかすると『ノラ』の上演に関わった演劇関係者か。それが誰にしても、森鷗外に物申すとは勇敢な人がいたものです。ですが鷗外は、マカロンを飴玉と訳すことはできない!と、外国語と自国語の間にある壁の代わりに立ちはだかったわけです。

 現代の戯曲翻訳者も、原文の特殊な感じを生かして訳すと「飴玉鉄砲」を浴びることがあります。日本人の誰もがわかる言葉に直すことがいい翻訳だという考えかたは、鷗外が「教(おしえ)」と皮肉ったとおり、今日にも根強く受け継がれています。

 しかし、なんでもかんでもわかりやすくしてしまうことは、自他を隔てる境界線を見えなくしてしまう危うさを含んでいると思います。日本語で考えることをしない他者が考えている特殊なことをどんな日本語で伝えるか、それは昔から翻訳家が取り組んできたテーマです。

マカロンを食べる「新しい人間」を紹介

 鷗外が「飴玉鉄砲」を食らってから一世紀。私たちはインターネットのおかげで、世界中からお気に入りの情報を選んで享受できるようになりました。パソコンやスマホの画面は平易な言葉で語りかけてきます。

 だからと言って、私たちの現実世界がわかりやすくなったわけではありません。母国語と他言語、文化と異文化、自国と他国との間には、依然として壁や境界線が存在しています。ただ、クリック一つで目を背けられるようになっただけで。

 文明開化の只中で翻訳をした鷗外は、「(予なんぞは)特殊の感じを出さうとしてゐる」と言い放ちました。つまり主人公ノラは、飴玉ではなくマカロンを食べる人間でなければならないという、翻訳家としては当然のこだわりがありました。

 たかだか菓子の話と言うなかれ、実際、ノラ役の俳優にとっては切実な問題です。飴玉を口に入れたらどうやって台詞を喋るんだという問題もありますが、日本人と同じものを食べる人間を演じるのと、得体の知れない菓子を食べる人間を演じるのとでは大きな違いがあるはずです。

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