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豆塚エリ『しにたい気持ちが消えるまで』に仄見える強い意思

今野哲男 編集者・ライター

コミュニケーション願望を持つ本

 そんな「ジャンル名」があるかどうかは知らないが、今年は「車椅子もの」とでも言うべき本を読む機会が多かった。『車いすでも、車いすじゃなくても、僕は最高にかっこいい。』(Kindle版、古澤拓也・著、小学館、2022年)とか、『普通で最高でハッピーなわたし~特別でもなんでもない二度目の人生~』(渋谷真子・著、扶桑社、2020年)とか──。どちらもポジティブな視点で、幅の広い読者の背を押すべく苦労して書かれ、企画された本だ。こういう本は、粗っぽく言えば、否定的な感想を言うことが難しい(と言うか、多くの場合は許されない)。

 私は、物書きとしての立ち位置を、予定調和的な肯定のオンパレードとは、できるだけ遠く(つまり、理性的で論理的な所謂「批判的言説」)に置きたいと願ってきた。だから、それらの本は、ときに仕事の目的を損なってしまうという、やっかいな弱点がある。

 しかし、今回出会った「車椅子もの」の中には、その弱点から自由にしてくれる(「批判フリー」な)嬉しい一冊もあった。なぜ嬉しかったのかと言うと、この本には良くも悪くも「批判を許容してくれる」、ときに「あけすけ」と言ってもいい、あからさまで幅の広いコミュニケーション願望のようなものを感じたからだ。豆塚エリの『しにたい気持ちが消えるまで』(2022年、三栄)である。16歳で投身自殺に自らの命を賭け、事後に頚髄損傷で車椅子生活を強いられてからは、人が変わったように「身体の声」を聴くようになり、「自分の生き方」は自分で責任を取ると思い決めた人の本だ。

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「世界の困難」が孕む、「詩的な跳躍」

 私は、この2月末に3度目の「脳梗塞」を患い、半年にわたる入院生活を強いられた。鼻から胃に直接栄養を入れ、しかも、尿管経由で取り出す尿の袋をぶらさげるという「二丁拳銃」の構えでのリハビリだったが、私は主観的には、そこで行う「歩行」や「食事の訓練」が辛いとは思わず、スタッフのほとんどがリハビリの進展度に驚いていた。

 これには理由がある。私は、今回の発作で左目の動きが制限され、結果的に両目の視野が食い違って周りが歪んで見えるという「錯視」の状態に陥ったのだが、日常生活では、たとえ不安定でも視野の広さを確保して不測の事故を防ぐために、両目を空けた「錯視」の状態が要請される。これがなかなか不快なのである。

 ところが、たとえばパソコンで片目を閉じて文章を読み書きするといった二次元の世界では、一時とは言え、「錯視」の煩わしさからは解放される。私は、一も二もなく、この作業に没頭した。と同時に、リハビリも、それと直接の関係はなかったものの、スタッフが驚くほど、ポジティブに頑張れたのだ。

 今回読んだ本は、「錯視状態」の煩わしさと、「片目を閉じて」文章に接することの間(あいだ)にある、曰く言い難い「解放感」を、改めて感じさせてくれるものだった。換言すれば、私の仕事上のスタンスにある根本的な矛盾点を、「詩的な跳躍」で洗い流してくれるような本だったのだ。

 『しにたい気持ちが消えるまで』は、詩と死をめぐる散文が複雑に絡まり合うエッセイ集と言っていい。その本がなぜ私を職業上の矛盾から自由にし、リハビリまで頑張らせることになったのか。以下、本書に沿って綴ってみる。

生と死をめぐる、のっぴきならない重層的な意味

豆塚エリの『しにたい気持ちが消えるまで 』(2022年、三栄)豆塚エリ『しにたい気持ちが消えるまで』(三栄)
 この本の冒頭には「この日のために生まれてきた~」と始まる「ベランダ」という詩がある。そして、この詩句が重ねて使われていることと、「12月のそら」と時期の特定をしていることから考えて、著者が《飛び降り自殺》を企てた日のことを詠ったものであることには間違いがない。問題は、「死ぬ日のために生まれてきた」という言葉が、まるで「死のために生きてきた」或いは「生きるために死ぬんだ」と聴こえてくることの詩的不思議、と言うか、こういって良ければ、リアルな視線に囚われた思考では理解の届かない世界と、奇妙な明るさを感じさせる点にあった。

 私は、1973年に発表された松任谷由実(当時は、荒井由実)の、リストカットなど、後の少女たちの生死に絡む複雑な病理を予言するような不思議な曲「ひこうき雲」を思い浮かべた。「誰も気づかず ただひとり あの子は 昇っていく 何もおそれない そして舞い上がる~」「ほかの人には わからない あまりにも 若すぎたと ただ思うだけ けれどしあわせ~」と謳ったあの曲だ。

 著者・豆塚エリの自らの《投身自殺》の語り口には、この歌詞と同じような「詩的な膨らみ」がある。たとえば8頁にある《身投げ》を実行する際の何気ない描写。「車が一台とまっていた。女性が乗っていたので、その車が動いてしまうまで待った~」、その落ち着いた物言いの直後に綴られる詩「死せる神」にある、「遠ざかる空と/耳を引き裂く音/そして/鈍い音をひとつ/陽にぬくめられたアスファルト/じわじわと迫り上がる幸福感/絶望はまぶしく/美しい ~」という詩句。ここだけでも彼女の言葉に、自分が遭遇した困難と真摯に向き合う力があることが分かるようだった。「ひこうき雲」が思い浮かんだ所以だ。

人を翻弄し、揺るがす純真

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 本書の各所で触れられる、《自殺少女》の様々で「あけすけ」なエピソードの魅力については、会ったことのない私が仔細に語るのは避けたいと思う。言っておきたいのは《身投げ》以降の彼女には、「身体が生きたがる」(136頁)という章題に象徴されるような、ほとんど倫理的な「生きる意欲」が鮮明なことだ。つまり、これからの生活の全ての責任は、自分が取るという強い意思が仄見えるのだ。

 彼女の「語り口の詩的膨らみ」は、そこから来ている。《身投げ》以前は愛憎絡みで語られていた、母と義父との暮らしをめぐる深刻な逸話が、以後は、父母はエピソードの中の人物の一人として登場するだけで、その手の愛憎の絡む言い方は全くなくなるのだから。

 私としては、自分の孫の世代に属する人間が通過し、闘った苦悩や喜びの一端を、世代を隔てた彼女の時代意識に照らしながら想像し、ただ追いかけるだけで、今のところ手一杯なのだ。

 本書には、誰にとっても、そうやって翻弄され、揺さぶられてみる価値があると思う。