必見! 「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」──『肉体の冠』『忘れじの面影』……
藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師
東京・シネマヴェーラ渋谷にて、驚愕の特集上映「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」が始まる(12月24日~)。1950年代末~60年代前半に起こった映画のムーブメントである「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」の旗手たち、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらが、監督デビュー以前の批評家時代に熱烈に称揚し、擁護した先達たちの傑作、秀作33本(!)が一挙上映されるのだ。
絶対に見逃せない貴重な特集だが、ここでは、悩んだ末に必見中の必見作をまずは2本選び、それらを論評したのち、そのほかの何本かにも短く言及したい(ただし、33本すべてが必見作である。ちなみに今回上映される作品の監督たち、ジャン・ルノワール、ジャック・ベッケル、マックス・オフュルス、ジャン・グレミヨン、ジョルジュ・フランジュ、サッシャ・ギトリらは、同時代には必ずしも正当に評価されなかった映画作家たちだ)。
三角関係の疾走感が凄い犯罪映画
■『肉体の冠』(ジャック・ベッケル監督、1951、仏)
名匠ジャック・ベッケルの最高傑作にして、50年代フランス映画の金字塔。ドラマが完全燃焼することで、観客に強烈なカタルシスがもたらされるという、優れた古典的犯罪映画ならではの完璧な作劇に圧倒されるが、19世紀末(ベル・エポック期)のパリを舞台にした物語は、きわめてシンプルだ。ドラマは結末に向かってひた走る。その疾走感が凄い。

『肉体の冠』=提供・シネマヴェーラ渋谷
──ヒロインの娼婦マリー(シモーヌ・シニョレ)と、大工のマンダ(セルジュ・レジアニ)は互いに一目惚れし、恋に落ちるが、マリーにはギャングのロラン(ウィリアム・サバティエ)という情夫がいた。嫉妬に狂ったロランとの激しい決闘の末、彼を刺殺したマンダは、町を離れ、田舎でマリーと束の間の平穏な日々を過ごす。やがて、マリーに恋着するギャングのボス、ルカ(クロード・ドーファン)の策謀によって、マンダの親友レイモン(レイモン・ビュシェール)がロラン殺しの容疑で逮捕される。マンダは自首するが、マリーの助力によって護送車から脱出し……。
このように、マリーをめぐる二つの三角関係が、物語をダイナミック(動的)に駆動させるプロットも卓抜だが、何より見事なのは、あらゆるシーンやショット──マリーとマンダのいっときの休息すら──が、それ自体の力を放ちながらも、ドラマを疾駆させる歯車として効率よく作動する点だ。
たとえば、冒頭まもなくの、互いに一目惚れする男女を、数瞬の視線の交わりだけで描く簡潔さ! さらに、拳銃の音が5発鳴り響くヤマ場のひとつに顕著なように、アクション・シーンでは肝心な瞬間を省略する編集の冴えが、ドラマをいっそう加速させる(もっとも、<平手打ちの映画>でもある本作における数回のビンタの瞬間を、カメラはクリアにとらえる)。

『肉体の冠』のシモーヌ・シニョレ=提供・シネマヴェーラ渋谷
それにしても、原題の「黄金の兜(かぶと)」が示すように、ブロンドの髪を兜のように結いあげ、ときに艶(つや)っぽく微笑み、ときに不敵な表情を見せる、情の深く肝の据わったヒロインのマリーを演じるシモーヌ・シニョレの素晴らしさ!
シニョレは、<ただそこにいるだけで>強い存在感を放つ稀有な女優だ(シモーヌ・シニョレを見ていると、近年のつまらない欧米映画に出てくる、「自分探し」系や「自己啓発」系の自意識過剰、自己愛過剰なヒロインを演じる女優たちは、そもそも“映画の顔”をしていないと思わざるをえない)。
本作ではまた、草木が生い繁った水辺のシーンなどの豊潤な自然描写や、男女がクルクル輪を描きながら踊る華やかなダンス・シーンが目を奪うが、そこには、ベッケルが、今回上映の『大いなる幻影』(1937)を含むその9本もの映画の助監督をつとめた“師匠”ジャン・ルノワール監督の影響が見て取れる。<★★★★★+★>