2022年12月23日
東京・シネマヴェーラ渋谷にて、驚愕の特集上映「ヌーヴェル・ヴァーグ前夜」が始まる(12月24日~)。1950年代末~60年代前半に起こった映画のムーブメントである「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」の旗手たち、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーらが、監督デビュー以前の批評家時代に熱烈に称揚し、擁護した先達たちの傑作、秀作33本(!)が一挙上映されるのだ。
絶対に見逃せない貴重な特集だが、ここでは、悩んだ末に必見中の必見作をまずは2本選び、それらを論評したのち、そのほかの何本かにも短く言及したい(ただし、33本すべてが必見作である。ちなみに今回上映される作品の監督たち、ジャン・ルノワール、ジャック・ベッケル、マックス・オフュルス、ジャン・グレミヨン、ジョルジュ・フランジュ、サッシャ・ギトリらは、同時代には必ずしも正当に評価されなかった映画作家たちだ)。
■『肉体の冠』(ジャック・ベッケル監督、1951、仏)
名匠ジャック・ベッケルの最高傑作にして、50年代フランス映画の金字塔。ドラマが完全燃焼することで、観客に強烈なカタルシスがもたらされるという、優れた古典的犯罪映画ならではの完璧な作劇に圧倒されるが、19世紀末(ベル・エポック期)のパリを舞台にした物語は、きわめてシンプルだ。ドラマは結末に向かってひた走る。その疾走感が凄い。
──ヒロインの娼婦マリー(シモーヌ・シニョレ)と、大工のマンダ(セルジュ・レジアニ)は互いに一目惚れし、恋に落ちるが、マリーにはギャングのロラン(ウィリアム・サバティエ)という情夫がいた。嫉妬に狂ったロランとの激しい決闘の末、彼を刺殺したマンダは、町を離れ、田舎でマリーと束の間の平穏な日々を過ごす。やがて、マリーに恋着するギャングのボス、ルカ(クロード・ドーファン)の策謀によって、マンダの親友レイモン(レイモン・ビュシェール)がロラン殺しの容疑で逮捕される。マンダは自首するが、マリーの助力によって護送車から脱出し……。
このように、マリーをめぐる二つの三角関係が、物語をダイナミック(動的)に駆動させるプロットも卓抜だが、何より見事なのは、あらゆるシーンやショット──マリーとマンダのいっときの休息すら──が、それ自体の力を放ちながらも、ドラマを疾駆させる歯車として効率よく作動する点だ。
たとえば、冒頭まもなくの、互いに一目惚れする男女を、数瞬の視線の交わりだけで描く簡潔さ! さらに、拳銃の音が5発鳴り響くヤマ場のひとつに顕著なように、アクション・シーンでは肝心な瞬間を省略する編集の冴えが、ドラマをいっそう加速させる(もっとも、<平手打ちの映画>でもある本作における数回のビンタの瞬間を、カメラはクリアにとらえる)。
シニョレは、<ただそこにいるだけで>強い存在感を放つ稀有な女優だ(シモーヌ・シニョレを見ていると、近年のつまらない欧米映画に出てくる、「自分探し」系や「自己啓発」系の自意識過剰、自己愛過剰なヒロインを演じる女優たちは、そもそも“映画の顔”をしていないと思わざるをえない)。
本作ではまた、草木が生い繁った水辺のシーンなどの豊潤な自然描写や、男女がクルクル輪を描きながら踊る華やかなダンス・シーンが目を奪うが、そこには、ベッケルが、今回上映の『大いなる幻影』(1937)を含むその9本もの映画の助監督をつとめた“師匠”ジャン・ルノワール監督の影響が見て取れる。<★★★★★+★>
■『忘れじの面影』(マックス・オフュルス監督、1948、米、原作:シュテファン・ツヴァイクの小説「未知の女の手紙」<1922>)
ドイツ生まれの名匠、マックス・オフュルスがハリウッドで撮った、艶麗かつ異形の傑作メロドラマ。これを見ずして映画は語れない。
──舞台は1900年頃のウィーン。決闘を明日に控えた、落ちぶれたかつての名ピアニスト、ステファン(ルイ・ジュールダン)のもとに、リザという“見知らぬ女”から手紙が届く。それをステファンが読み出すと、その文面が、リザ(ジョーン・フォンテイン)の、耳に快い、かすかにくぐもった声のナレーションとなり、回想シーンが始まる。
すなわち、修業中のピアニストのステファンに一目惚れしたリザの少女時代の日々や、美しく成長し社交界デビューしたリザが、ピアニストとして成功したステファンに再会し、彼と一夜を過ごすまでの経緯、さらに、2週間の予定でミラノに旅立ったステファンが、そのまま帰って来なかったこと、リザが妊娠しており、男の子を産んだのち、富裕な貴族と結婚したこと。そして何年かのち、ステファンにふたたび再会したリザが、彼女を覚えていない彼の不実さに幻滅し、彼に別れを告げたことが、オフュルス独特の流れるような語り口で描かれる。回想シーンが終わると、映画は現在に戻り、そこからさらに驚くべき展開をみせる(見てのお楽しみ)。
このように『忘れじの面影』は、残酷で異形のメロドラマである。その残酷さとはむろん、リザが真剣に愛したステファンが女たらしで、彼にとって彼女は一夜の遊び相手でしかないという、二人の関係の非対称性にある。そうした展開は、典型的なハリウッド・メロドラマの古典──たとえば、男女の真摯な恋愛を描いたダグラス・サーク監督の傑作、『悲しみは空の彼方に』(1959)のような──とは作風が大きく異なる。
最初の逢瀬で、ステファンは使い慣れた口説き文句を並べてリザを口説く。
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