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クラシック演奏会の「トーク」はいらない

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 依然としてコロナ禍下にあるとはいえ、演奏活動が再開されている様子を見て私はうれしい。最近、思わず3度も続けてクラシック・コンサートに足を向けたほどである。

トークつきコンサート

 その際、演奏会の作法に変化があればと期待したが見事にはずれた。むしろその現象は前より顕著になっていると感じられた。それは他でもない、近年、クラシック・コンサートでさえ行われる演奏者のお喋り(以下「トーク」)のことである。

 いつ頃からなのだろう、演奏者がアンコール時以外にも観客に向かって話しかけるようになった。しかも演奏曲目の題名を告げるだけではなく、あれこれお喋りをするようになった。これは、私の記憶では1990年頃からのように思われる(後述)。だがそれは今や、コンサートのふつうの一コマとなったようである。

ポップス演奏会

 私が好きなのはクラシック音楽である。だが娘にせがまれて、何度かポップスの演奏会に足を運んだことがある。ポップスも多様だろうが、聴衆が総立ちで演奏に合わせて体を揺らし、声を上げ、あたかも舞台と一体のようにして演奏を楽しんでいるのに驚いたものである。

 一方、クラシックではその種の習慣は全くない。例えばウィーンでの元旦の風物詩「ニューイヤー・コンサート」で、最後の「ラデツキー行進曲」演奏時に観客が行う手拍子などのような光景は、なくはない。だがそれはあくまで例外であろう。

 ポップスでは観客は、アイドルに対するかのように歌手・演奏家との交流を楽しんでおり、そのトーク自体を当然のものとして楽しんでいる。

クラシックへの影響?

 こうした公演習慣が、クラシックにも及んだのだろうか。私自身楽しんで聞いた覚えがあるが、例えばバイオリニストの松野迅氏のコンサートでは、演奏はもちろん話術もまた見世物(聞かせ世物)だった。私が聞いたのは90年前後のことだったと思う。

 思うにその頃から、演奏会のこうした流儀が広がってきたようである。トークのおかげで、堅苦しいクラシックも気楽に聞け、また時には演奏家の話自体がおもしろい、という印象を持つ人も少なくなかったようである(松野迅『すみれの花かご──ヴァイオリンのある喫茶室』未来社、35p)

Artisticcoshutterstock拡大Artisticco/Shutterstock.com

 近年、クラシック愛好家に2極分解が起きていると感じられる。1時間をゆうに超えるマーラーやブルックナーの長大な交響曲が、今は当たり前に聞かれる時代である。これは思うに、音響機器を用いて演奏を何度でも楽しめるようになった結果だろう(柴田南雄『グスタフ・マーラー──現代音楽への道』岩波新書、10p)。

 要するにクラシック愛好家も一枚岩ではない。比較的短い曲を肩ひじ張らずに楽しみたいと感じる層が増え、そのためトークが受けるようになったのかもしれない。

 だがトークが当然のように行われるようになった結果、各種の弊害が生じていないか。


筆者

杉田聡

杉田聡(すぎた・さとし) 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

1953年生まれ。帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)。著書に、『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』(花伝社)、『逃げられない性犯罪被害者——無謀な最高裁判決』(編著、青弓社)、『レイプの政治学——レイプ神話と「性=人格原則」』(明石書店)、『AV神話——アダルトビデオをまねてはいけない』(大月書店)、『男権主義的セクシュアリティ——ポルノ・買売春擁護論批判』(青木書店)、『天は人の下に人を造る——「福沢諭吉神話」を超えて』(インパクト出版会)、『カント哲学と現代——疎外・啓蒙・正義・環境・ジェンダー』(行路社)、『「3・11」後の技術と人間——技術的理性への問い』(世界思想社)、『「買い物難民」をなくせ!——消える商店街、孤立する高齢者』(中公新書ラクレ)、など。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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