家庭での教育
自民党と統一教会、両者を結び付けていたキーワードはなんと言っても「家庭」だろう。自民党も統一教会も「健全な家庭」を理念にしている。
議員たちが述べた「家庭」発言を列挙してみたい。
「国会議員に出馬した一番の理由は家庭教育、教育のことでございました。(中略)教育というもの、家庭での御両親の愛情というもの、こういうものをしっかりと取り戻さなければなりません」(工藤彰三氏、2015年、教団の式典)
「皆さん! 家庭というのはまさに世界平和の最小の単位だと私はこのように思っております」(鈴木克昌氏〈当時民主党の衆院議員〉、同)
「何が大事かといえば愛を持って家庭を築いていくということ、これが一番であることであります」「愛なき社会に繁栄はありません。その絆は家庭です」(柳本卓治氏、2017年のイベント)
「家庭は社会の自然かつ基礎的集団単位としての普遍的価値を持っているのです。偏った価値観を社会革命運動として展開する動きに警戒しましょう」(安倍晋三氏、2021年、教団系の大規模集会にリモート出演)
読むだけでくらくらしてしまう。発言した方々は、愛にあふれた平和なご家庭を築いているのだろう。それにしてもいったいなぜこれほどまでに「家庭」を強調するのだろう。
その理由のヒントを、たまたま読んでいた小説で見つけた。垣谷美雨さんの『定年オヤジ改造計画』(祥伝社文庫)だ。大手石油会社を定年したばかりの男性が主人公のユーモラスな内容なので、先入観なしに楽しく読んでほしい。
そこにこんな記述があった。発言しているのは主人公の出身地である東北の寒村に住む兄や姉たちだ。
(兄)「おそらぐ、大正時代がらでねがと思う」と兄が腕組みをして宙を睨んだ。「子育ての全責任を母親になすりつけるようになったのは」
(長姉)「国の策略にまんまと引っかがったんだべさ。年寄りと赤ん坊の世話を女(おなご)にさせどげば、福祉さ回す金を削れるがらさ」
(次姉)「姉ちゃんの言う通りだな。そったらことを母性愛だの家族愛だのって言葉で国は庶民を騙そうとしてだのっさ。私だづ庶民を馬鹿だと思ってるみたいだけんども、私ら(オラど)絶対に騙されねえもんな」

垣谷美雨『定年オヤジ改造計画』(祥伝社文庫)
私はこれを読んでハッとした。議員たちの強調する「家庭」とは、伝統的な家庭観だろう。つまり、夫は外に出て働き、妻は家で夫を支え、子育てや介護をする、というものだ。こうした家庭を理想として発信し続けることで、社会の側にもそれが常識として刷り込まれていく。そこでは、妻はお金のかからない労働力であり、国は育児や医療、介護への支出を抑えることができる──というのは考えすぎだろうか。
もう少し考えを“暴走”させてみると、保育士や看護師、介護士の賃金が低いこととも大きな関係があるように思えてくる。
私は、本当にすべきは伝統的な家庭の復古や家庭教育の強調ではなく、子ども個々人の支援だと思う。以前にもこの欄で触れたが、日本の子どもは7人に1人が貧困状態にある。
子どもの貧困を描いた『八月のひかり』の衝撃

ヒオカ『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)
最近ヒオカさんという方が書いた
『死にそうだけど生きてます』(CCCメディアハウス)という本を読んだ。政治に携わる方はぜひ全員、読んでほしい。
ヒオカさんの家庭はとても貧しかった。父親は体が弱かったが、家で暴力をふるうので、いつも地域の図書館などに時間いっぱい滞在し、本を読んだり勉強したりした。習い事は一つもできず、大学受験の参考書はアマゾンで買った1円の古本だ。
なんとか公立大学に進学したが、引っ越しのお金がない。住んだのは8畳間に6人が寝るシェアハウスだった。そこでは長く暮らせず引っ越すのだが、転居先でも南京虫が出たり、カビだらけだったりした。
生活のストレスだろう、さまざまな病気にかかって入院するが、お金が心配でゆっくり療養などできない。ヒオカさんは次のように書く。
生まれによるマイナス要因を持った人たちは、「不可視化される」ことばかりだ。前提とされていない。カウントされていない。そんなことをひしひしと感じるのである。
「可視化されていない」のではなく、「不可視化される」のだ。ヤングケアラーだって、これまでなきものにされていて、やっと光が当たり始めたところだ。
ヒオカさんが書いた生活は、「健康で文化的な最低限度の生活」だろうか。ヒオカさんは1995年生まれの27歳。戦後の貧しかった時代ではなく、今の話だ。
一人一人の子どもの今を可視化して必要な支援をし、子どもが子どもらしく暮らせるようにするのが私たち大人の責任だと思う。