福嶋聡(ふくしま・あきら) MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店
1959年生まれ。京都大学文学部哲学科卒。1982年、ジュンク堂書店入社。サンパル店(神戸)、京都店、仙台店、池袋本店、難波店店長などを経て、現在、MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店に勤務。著書に『希望の書店論』(人文書院)、『劇場としての書店』(新評論)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
『ウトロ』『歴史の屑拾い』『未完の敗戦』
今年2022年の最大のニュースは、安倍元首相狙撃・殺害事件であろう。今日このようなことが起こるとは恐らく誰も予想していなかった、戦後最大の事件と言ってもいい。
ところが、安倍元首相の死後、国葬の是非と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への“制裁”に話題が移り、事件そのものの衝撃は長く続かなかったように思う。生前の安倍元首相の業績が称揚されることも少なく、一方で様々な疑惑や負の遺産──「モリカケ問題」「桜を見る会」「新型コロナ禍対策」「東京オリンピック強行」等々も、「旧統一教会と政治」の問題に覆い隠されてしまったかのようだ。ぼくにはどうしても「安保関連法制」と結びついてしまい、とても象徴的に思える殺害容疑者=元自衛隊員という事実も、今はもう霞んでしまっているようである。
積み残された問題の一つに、韓国の人々から戦時の強制労働の補償を求められている「徴用工問題」がある。
戦時中、京都府宇治市ウトロの在日コリアン集落で生きてきた人たちは、彼ら「徴用工」と同じような目に遭いながら、ずっと長い苦しみの日々を、日本に留まり(留まらざるをえなかったのだ)送ってきた人たちである。中村一成著『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』(三一書房、2022年4月)は、中村が20年にわたってウトロの人たちから聞き取りを行い、生きた言葉によって、ウトロに生きる在日コリアンの苦難の歴史を描き出した本だ。
ウトロの在日コリアン集落は、中国との戦争の長期化、欧米との関係悪化の中で1940年に着工された「京都飛行場」建設に起源がある。1943年、滑走路用の土砂を採取した後に出来た「くぼ地(宇土)」に、集められた朝鮮人労働者の飯場が統合された。宇土口(うどぐち)の読み間違えである「ウトロ」が後に正式な地名になったという。
地名が表すようにウトロは「くぼ地」であるから、何度も水害に襲われた。下水道も浄化槽もないから、台風のたびに、共同便所から糞尿が溢れ出す。住み家は、雨漏りはもちろん、隣家との隔ても十分ではなかった。壁に空いた穴からお隣の様子がわかる。時にその穴を通して食事のやり取りをしたという。安普請は、住民の結束も強めたのである。
敗戦直後の混乱を抜け出した日本は、在日コリアンを、より過酷な状況に追いやった。
1952年4月28日、ウトロ住民らを含む在日朝鮮人、台湾人は、植民地化で強要された日本国籍を今度は一方的に喪失させられ、戦後補償、社会保障の対象外とされる。
そして、「解放」された祖国を分断する戦火。住処に隣接する、自分たちが建設した軍事飛行場には、連合軍が進駐していた。
「鉄くず拾って売ってたけど、あれ結局朝鮮に流れて、戦争で使ってたんだと今思うのです。……自分の国、滅ぼしてくれいうて鉄、運んでいるようなものです。当時そんなん分からへんやん。ただ食うだけのことや」(P.108)
生きるための「闇」酒、「闇」煙草の製造は警察の介入の恰好の材料となり、唯一可能だった生活保護は、しばしば「不正受給」摘発の対象となった。
そのように在日コリアンを経済的に追い詰めることは、1959年に始まる北朝鮮への「帰国事業」とセットであった、と中村は指摘する。「歴史の証人であり、謝罪と補償の対象である在日朝鮮人」の国外追放こそ、政府にとっての「帰国事業」だったのである。
時代は下り1980年代、思いもしなかった問題が住民たちを襲う。土地登記社である日産車体(飛行場建設時の登記者である日本国際航空工業が、敗戦後に日産と合併し出来た会社)が、在日コリアンのウトロ居住を「不法占拠」として、買い取りか明け渡しかと迫ったのだ。
騙し同然で集めて重労働を課し、何の補償もなく放ったらかしにしておいて今さら出ていけとは、何をか言わんやである。そもそも土地の所有権とは一体何なのか?
裁判への戸惑い、強制執行の恐怖、地上げ屋の跋扈、同胞の「裏切り」……。だが、一方で日本人協力者、援助者も現れ、韓国の民主化が故国の人々の目をウトロに向けさせた。韓国政府や運動団体の日本の政府や行政への働きかけ、そして市井の人々の広範な寄付がウトロの人々を支援し、奮い立たせる。
ウトロの歴史は、戦後日韓史の縮図なのだ。それは、植民地支配の歴史的責任、戦後補償の棚上げを問う、ウトロ住民の困難にして不屈の闘いの歴史である。