2022年12月27日
*『ケイコ 目を澄ませて』(三宅唱)
聴覚障碍を持つ女性ボクサーが日々練習を重ね、試合に挑み、一度は心折れるも、ジムの会長らに支えられて再起を決意するまでを、衒(てら)いのない古典的な正攻法で描き切った、心震わす傑作。随所に挿入される、荒川河川敷などの下町の風景も素晴らしい。そして、ヒロイン役の岸井ゆきのの身体にみなぎる力が、熱中できる何かがあれば、人は自分自身であることができる、まさにそのことを雄弁に伝えてくる。これが人生=映画だ!
*『弟とアンドロイドと僕』および『冬薔薇(ふゆそうび)』(共に阪本順治)
前者は、自分が存在していることを実感できないロボット工学者(豊川悦司)が、自分そっくりのアンドロイド製造に没頭し、周囲の人間たちと様々な齟齬(そご)をきたすという怪傑作。無口で無表情な彼の頓狂な言動や、降り続く雨や幽霊屋敷のような病院の陰鬱な雰囲気が、異様な映画的熱量を放ち、見る者を釘付けにする(主人公は没頭できる何かがあるのに、自分の存在を実感できずアイデンティティを得られない点で、『ケイコ~』のヒロインとは対照的だ)。
後者は、定職に就かず、友人や女から金をせびって自堕落に生きる25歳の若者(伊藤健太郎)の、寄る辺なく漂う日々を、突き放すような、ささくれたようなタッチで描いた、これまた傑作。役者に大仰なリアクションの芝居を禁じた演技設計も見事だが、30年以上におよぶ阪本順治の力走に、あらためて感嘆。
*『みんなのヴァカンス』(ギヨーム・ブラック)
ジャック・ロジエ監督の『アデュー・フィリピーヌ』(1962)を頂点とする、フランス・ヴァカンス映画の最も正統な後継者、ギヨーム・ブラックが二人の黒人俳優を起用して、彼らを含む様々な男女があれやこれやの小波乱を起こす模様を、緩急自在なテンポでユーモラスに描く逸品。古典映画のようにドラマが一点に向かって収れんするのではなく、あくまで多焦点的に迂回しながら進行する群像劇は、現代映画の一典型だが、それを本作のような傑作に仕上げる力量において、ブラックは他の追随を許さない(以上の“映画脳”を刺激する、すなわち映画的快をもたらす4本は、順位が入れ替え可能)。
*『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』(ウェス・アンダーソン)
この舌を噛みそうなタイトルの雑誌の、多種多彩なトピックの記事をオムニバス形式で映像化する、いかにも才気煥発なこの監督らしい着想に舌を巻く。前衛芸術、学生運動、誘拐事件……といったネタを、厳密な幾何学的スタイルとポップな色使いによって面白おかしく、かつスリリングに描くアンダーソンは、安定した“打率”を維持し続けている、今や希少なアベレージ・ヒッター。
*『ヨーヨー』(ピエール・エテックス、1964)
フランス喜劇映画の知られざる天才、ピエール・エテックス(1928~2016)の、日本初公開となる超傑作。親子二代にわたるサーカス芸人の人生をシュール、かつ優雅に描いた伝記フィクション映画で、道化師でもあったエテックスの自作自演作(一人二役)である。サイレント映画とサーカスへの愛が込められたモノクロの世界で、無口なエテックスが“師匠”ジャック・タチ譲りのパントマイム芸を見事に披露する。『007/サンダーボール作戦』(テレンス・ヤング、1965)でボンドガールに扮したクローディーヌ・オージェの美貌も眼福。やはり日本初公開の『健康でさえあれば』(1965)も、ストレスフルな現代社会をユーモラスに風刺した大傑作。そのほかエテックスの5本の長短編も上映中なので(東京・「シアター・イメージフォーラム」ほか順次公開中)、お見逃しなきよう。
*『シン・ウルトラマン』(樋口真嗣)
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