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大ブレイクの「マドロスもの」の寿命を縮めた?船員の反発と三島由紀夫の小説 後編

【55】マドロスたちのあまりに激烈なマドロスもの批判の背後にあるものとは……

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

「マドロス稼業はやめられぬ」1962(昭和)37)年
作詞・矢野亮、作曲・川上英一
歌・三橋美智也

楽屋で出を待つ歌手(キング)・三橋 美智也(みはし・みちや)さん

あまりにも過剰かつ過激なマドロス歌謡批判

 前編では、戦後の「マドロスもの」は同時期の日本の海運の動きを反映しているが、それが10年ほどの「短命」に終わったのは、当事者であるマドロスたちから反発を食らったからではないかとの検証結果にたどり着いた。

 しかし、そこで私の胸中に次なる疑念がわいてわだかまった。検証はここで落着ではない。その奥にはより深い物語が宿っているのではないか、と。

 たしかにマドロスものが突然、隆盛を見せる時期に、早々と当事者たちが反発したのはただならぬことであり、マドロス歌謡の寿命を大きく縮める重要な要素となったことは間違いない。だが、果して彼らの反発はマドロスものを短命に終わらせるためだけに費消されたのだろうか。

 というのも、それがあまりにも過剰かつ過激だからだ。ひょっとすると、彼らはマドロスものの背後にある何物かに異議をとなえていたのではないか。

「大ブレイクの『マドロスもの』の寿命を縮めた?船員の反発と三島由紀夫の小説 前編」は「こちら」から

享楽にふけっているかのようなイメージは心外

 そう感じたのは、前編で紹介した全日本海員組合機関誌『海員』昭和29年11月号に掲載された「マドロス歌謡批判特集」のなかの以下のくだりからである。

 戦争中兵器も持たずに炎の海へ追いやられ、死傷率は、日本一、陸海空軍人よりも高く、敗戦後はわずかに残った劣悪船を操って、食糧の輸入に全力を尽くし国民を飢餓一歩手前から救い、引揚船の一隻も沈めることなく、異郷の同胞を母国へ送り届け、今また、水爆の惨害を全身に浴びつつも、日本人の最も安価な動物性蛋白の補給源としての魚を取るために、南へ出漁していく船員たち、このように国運と密接に繋った角度から、現実の海員を歌謡曲の作者たちが歌った事は、評者は寡聞にして聞かない。

 特集は次号に持ち越され、批判のやり玉に挙げられたマドロスものの量産作詞家である野村俊夫から反論が寄せられるが、これに対しても、批評子は容赦ない追撃を加えている。

 半年前わが国の海運界は、僕ら自身の責任からではないが、政界の腐敗と海運経営者の堕落のために大きな疑獄事件を引き起こしました。それが海運国家のそして当面の計画造船への世論の反発となって、わが国の経済発展と国際収支の均衡を得る上に、極めて重要な役割を持つ海運復興の非常なマイナスとなっています。(略)このような世論の形成というもものを考えるとき、どうしてもあなたのデカダンな歌が世人の海員観に流す眼に見えない書毒を取りあげざるを得ない。

 船員たちは、戦争中も、そして戦後の今も、国家と国民の存亡の危機を必死で下支えしているのに、「港々に女あり」と享楽にふけっているかのようなイメージを歌謡曲によって広められて心外だ、と怒りをあらわにしている。

 本来、組合運動の第一義は賃金・労働条件など所属組合員の利益を追求することにあり、「天下国家のため」は付け足しの「大義名分」にすぎない。にもかかわらず、この自負心に裏打ちされた主張は過剰であり、組合運動のレベルを遥かに超えている。

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マドロスものの傑作、三島由紀夫の『午後の曳航』

 いったいどうして、これほどの自負が、わずか8万人ほどの小さな労働組合の全国連合組織から生まれたのか? 改めて関連資料をあたり直してみると、どうやらその奥底には、単にマドロスものという戦後歌謡史を彩る「芸能事件」にとどまらない、ひょっとしたら敗戦後の日本のあり方を問いかける「社会的案件」が潜んでいるのではないかと思えてきた。

 当初それは思いつきにすぎなかったが、やがて確信に近いものにかわった。そこへ導いてくれたのは、マドロス歌謡が最盛期の昭和38年に発表された三島由紀夫の小説、『午後の曳航』である。

 主人公は13歳の中学一年生。横浜で8年前に夫を亡くした美貌の母親と暮らし、外航船と船乗りに憧れを抱いている。母親は、芸能人や有閑階級を客にもつ高級輸入雑貨店を元町で経営しているが、下船待機中だった大型外航貨物船の二等航海士と出会い恋仲になる。

 それが機縁で、少年は航海士に船内を案内してもらい交流を深めるなかで、死をもいとわぬ高邁(こうまい)な精神と屈強な身体をもつマドロスとして彼に憧憬(しょうけい)をつのらせる。

 しかし、やがて航海士は母親と結婚を決意、海を捨てて陸に上がる。少年の憧憬は幻滅へと暗転。仲間と語らって港を望む乾船渠(かんドック)へ航海士を誘って毒殺を企図する。

 『午後の曳航』には、これまで多様かつ多義的な解釈がなされてきた。もっともベーシックな解釈は以下のようなものである。

 純粋無垢な世界を信じて希求してやまないが故に時に反社会的行為を恐れない“恐るべき子供たち”、片やいつしか子供時代の純粋無垢性を失って世間と妥協する大人たち――この両者の確執という古典的テーマを、戦後日本の復興浮上期に重ね合わせてあぶりだした。

 私が『午後の曳航』を初めて読んだのは高校時代だが、少年のマドロス処刑企図を、大人社会への不信とみて共感したことを覚えている。

 それから10数年後、私が大人社会に仲間入りした1970年、三島が市ヶ谷の自衛隊本部で自決したとき、真っ先に『午後の曳航』が脳裏をよぎり、こう思ったものだった。

  三島は、世間に妥協し堕落した航海士を許せないと処刑を企図した少年を自らに見立てて、自死したのかもしれない。

 さらに、それから30年近くたった1997年、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る少年による凄惨な連続児童殺事件が起きたときは、『午後の曳航』は予言の書として再び注目を浴び、私もこの作品の生命力と持続力に大いに驚かされた。

自宅でインタビューを受ける三島由紀夫氏=1967年7月26日、東京都大田区

重要な役割を果たすマドロス歌謡

 読むたびに新たな発見があるのが「名作」の条件とされるが、『午後の曳航』は数ある三島作品の中でもそれに値する絶品で、今回改めて読み直してみて、またまた新しい発見があった。

 それは、当時隆盛を極めていたマドロス歌謡が重要な役割を果たしていることである(これまで全く気付かなかったことで、調べた限りでは、これに言及している論及はみあたらなかった)。

 そのマドロス歌謡は、作品の前段で、二等航海士の愛唱歌として次のように紹介されている。

 「彼はマドロスの歌、(誇り高い船員たちは、この種の歌を毛嫌いしていたが)、なかんずく『マドロス稼業はやめられぬ』が好きだった」

 この「マドロス稼業はやめられぬ」は実在の歌謡曲で、『午後の曳航』刊行の前年の昭和37年、民謡歌手出身で当時売り出し中の三橋美智也が歌い、キングレコードからリリースされている(作詞・矢野亮、作曲・川上英一)。

 航海士が少年の母親と出会って自己紹介するシーンでも、「海の話をしようと思ったが、実際に彼の口から出たのは、いつも歌っている歌の一節」で、航海士に「可笑しいですか、これが私の一等好きな歌ですよ」と言わせている。

 そして、作品の大団円では、少年と仲間たちが毒殺を企図しているとはつゆ知らず、航海士がうたってみせるのは「マドロス稼業はやめられぬ」である。

 このように三度も、しかもいずれも重要なシーンに「マドロス稼業はやめられぬ」は登場しており、そこには作者の三島の何らかの企図があることは間違いない。その一方で、この歌を三島がなぜ選んだのかについては、いくつか謎がある。

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及第点ギリギリの「可」がいいところ

 そもそもこのマドロス歌謡が発売された当時、私は中学生だったので、耳にしているはずなのだが、さっぱり記憶にない。今回ネットで探しあてて聴いてみたが、こんな歌詞である。

♪幼なじみのあの娘の気持ち
知っちゃいるけど帰港の日まで
嫁の嫁の話はお預けさ
♪波がどんとくりゃぶるんと弾む
こたえられないマドロス稼業
一寸一寸当分 止められぬ

 マドロスものとしては男女の交歓の機微が希薄で、琴線に響いてこない。またメロディも演歌臭がつよく、昭和30年代を中心に200曲余りつくられたマドロス歌謡の中で点数をつければ、及第点ギリギリの「可」がいいところだろう。

 三橋美智也は「哀愁列車」(作詞・横井弘、作曲・鎌多俊与)をはじめ30曲ものミリオンセラーを出しているが、「マドロス稼業はやめられぬ」は、それ以下の30曲の中にも入っていない。これでは往時ラジオでめったに流されることもなく、私の記憶にないのも道理であった。

凡庸なマドロスソングが“抜擢”されたワケ

 それにしてもなぜ三島はなぜ、こんな月並みで凡庸な実在の歌謡曲を、マドロスのシンボルとして設定した重要な登場人物の愛唱歌に“抜擢”したのか。

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