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救命胴衣や酸素マスク装着を疑似体験できる場が空港や船乗り場にあるとよい

航空機・遊覧船運行会社の責務

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

実体験の欠如

 私は「オール電化」住宅に住んでいる。おかげで火事の心配は少ない。それでも万が一を思って消火器を用意してある。カセットコンロや、真冬の停電に備え灯油ストーブを使うこともあるからだ。それに電磁(IH)調理器だけで食生活を送っていても、天ぷらを揚げた時などの用心は欠かせない。

 でもこれまで消火器を1度も試してみたことがない。時々説明書を見て使い方を確認するが、いざという時に本当に使えるかどうか心配になることがある。

航空機の救命胴衣──私はたぶん着られないだろう

 飛行機に乗った時も同じ気持ちになる。命に直結するだけに、未利用の緊張感はもっと大きい。私が言っているのは、救命胴衣(ライフベスト)のことである。

 飛行機に乗ると、離陸前、前方画面に「安全ビデオ」が放映されるが、先日乗ったJAL便では「これを必ずご覧ください」という機内アナウンスがあった。ビデオを見ない乗客が多いためだろうか。

Stephane BidouzeStephane Bidouze/Shutterstock.com

 しかしいつも思うのだが、映像を何度見ても、酸素マスクの使い方、救命胴衣の着方・金具等の用い方、ふくらませ方、ふくらみが足りない時の対処の仕方などは、ほとんど理解できない。いちおう理解したつもりでも、実際の緊急時に本当に対処できるかどうか。飛行機に乗るようになってから50年にもなり、この間何百回もこの種の説明・映像を見ているのにこのザマかと泣きたくなるが、多分私だけのことではあるまい。

 だがこれは問題ではないだろうか。いつだったか歌舞伎役者による機内安全ビデオを見たことがある。とても分かりやすい。だがそれでも、一度もふれたことがない救命胴衣を緊急時に短時間で装着できるかは、やはり心もとない。

小型船でも

旅客船の客席の天井に備えてある救命胴衣=2022年5月2日午前9時6分、和歌山市加太旅客船でいざという時、救命胴衣をすぐに装着できるだろうか=和歌山市加太
 思えば、船の場合も同じである。

 むかし、おたる水族館(北海道小樽市)に行こうと、埠頭(ふとう)から遊覧船に乗ったことがある。防波堤内を船はゆったり進んだが、ひとたび防波堤を出ると小型船はけっこう揺れた。甲板のベンチ中央に脚を90度以上広げて座っていた、こましゃくれた小学生が、思わず私にしがみついたほどである。確かに乗客に不安が広がった。

 船に備えられた救命胴衣は、航空機に装備された「膨張式」とちがって比較的着脱のやさしい「固定式」だった。けれど、揺れる船から万一脱出しなければならなくなった時、全く試したことがないこの胴衣を、機敏に装着できるのか。自分で着るだけならまだしも、幼いわが子にそれを正しく着させられるのか。私は内心びくびくした。

 救命胴衣を必要とする度合いは、船の場合ははるかに高い。飛行機が着水するという事態は尋常ではないが、船はいわば始めから着水しているのであるから。

「ハドソン川の奇跡」

 近々1月15日がめぐってくる。離陸後の事故で両エンジンを一瞬で失った民間航空機(乗客150人)が、ニューヨークのハドソン川に緊急着水し、乗客・乗務員全員が奇跡的に脱出したのが、14年前(2009年)のこの日である。

 この時の、乗務員・乗客が陥った緊迫した状況を描いたのが、トム・ハンクス主演の映画『ハドソン川の奇跡』である。いろいろ調べてみると、脱出劇自体はこの映画に比較的よく再現されており、当時の報道写真に見るように(“10 Dramatic Photos from 2009's Miracle on the Hudson Photos”People、2022年1月15日)、乗客のほとんどは救命胴衣をつけないまま機外に脱出したのである。

APニューヨーク・ハドソン川に着水した旅客機USエアウェイズの乗客150人、乗員5人は全員救出され、「ハドソン川の奇跡」と呼ばれた=2009年1月15日、AP

多くの人が未装着だった

 この事件では、空気でふくらんだボート状の「緊急脱出スライド」に非常口から飛び移った人はまだしも、主翼の上に逃れて立ち続けた多くの乗客は、いつ川に投げ出されるかも知れず、その限り、救命胴衣の必要性は極めて大きかったはずである。

 もちろん、装着していても、水温摂氏2度の川に転落すれば命を落とした可能性もあることは、知床での観光船「カズワン(KAZU I)事件」から想像されるが、それでも胴衣を付ける方がはるかに救命率は高い。

 にもかかわらず、ハドソン川事件では多くの人が救命胴衣を付けなかったのが現実である。カズワン事件では異常発見から沈没まで1時間前後の余裕があったせいか、当時判明した死者14人中、未装着者は5人にとどまったが(北海道ニュースUHB、後述するが「正しく」装着できていたかどうかは不明)、ハドソン川事件では乗客150人中、未装着者は117人に達した(WSJ=The Wall Street Journal、2016年1月22日)。

 彼らは胴衣を付けなかったのではなく、着水前に付けることを思いつかなかったか(映画を見る限り、客室乗務員は緊急時の対応について座席前の冊子を見るよう離陸前に乗客に促しただけだった)、あるいは事故発生から緊急着水までに要したのはごく短時間だった(約3分半)うえに着水後も脱出時間がほとんどなく装着する余裕がなかったか、のいずれかであろう。

 だがそれ以上に、

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