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つかこうへいとの関係が一区切りした年

〝三婆〟に頼まれて始めた作・演出

長谷川康夫 演出家・脚本家

 演劇に革命をもたらした劇作家・演出家つかこうへい(1948~2010)が『劇団つかこうへい事務所』を解散した後の歩みを追ってきた連載「つかこうへい話Returns」。いよいよ最終シリーズに入ります。

「演出をやってくれない?」

 1986年は、僕とつかこうへいの関係に、ひとつの区切りがついた年である。劇団時代からずっと続いてきたつかの原稿執筆を手伝う仕事が、5月に発表した小説『青春・父さんの恋物語』(後に『ロマンス』と改題)をもって終了するのだ。

つかこうへい=1990年撮影
 この作品は、短編小説『ロマンス』と、その主人公たちの後日談を舞台化した『いつも心に太陽を』(発表はともに1979年2月)をベースに、物語をさらに二十数年後まで膨らませたものである。

 拙著『つかこうへい正伝 1968-1982』で詳しく書いたように、僕にとっては、基となったこの2作の成り立ちこそが、それからのつかとの密な時間の始まりでもあり、その長編小説化にあたって、このところ離れていた執筆のアシスタントを久々に務めることには、格別な思いがあった。

 その春、僕は北区滝野川の事務所に2カ月以上通い、完成を見届けるのだが、掲載誌である「野性時代」では、つかへのインタビューを僕の名で行い、2年後の文庫化の折には、『解説』まで任された。どちらもつかの要望によるものだ。

 どうやらつかの中には、この小説を最後に自分の仕事から長谷川を解放してやろうとの考えが、最初からあったようだ。そろそろ潮時ということだったろう。

 その理由はいくつかあるが、まずこの年の1月から、僕が自分の芝居を作り始め、公演を打つようになったことが大きい。

 「演出をやってくれない?」

 松金よね子、岡本麗、田岡美也子という三人の女優たちに呼び出され、そんな思いがけない言葉を聞いたのは、前の年の夏頃だったと思う。

 『東京乾電池』や『東京ヴォードヴィルショー』などの舞台で、それぞれ客演として頻繁に顔を合わせていた彼女らがユニットを組み、自分たちだけで芝居を始めるので、協力してほしいというのだ。

(左から)田岡美也子、松金よね子、岡本麗

 岡本、田岡の二人とは、つかこうへいが抜けた後の『劇団暫』で1976年に出会って以来の付き合いだし、松金とはその翌年、僕が出演した『東京乾電池』を通して知り合っている。何より岡本は『劇団つかこうへい事務所』でも、解散前の2年間一緒だった。

 僕にとっては皆、年上で、仲よくさせてもらっているオバサンたちといった感覚であり、僕は親愛を込め〝三婆〟と呼んでいた。(彼女たちとて、まだ30代だったのだが)

 その三人が新たな出発にあたって、これまでちゃんとした形で芝居の演出などやったことのない僕に、なぜそんな重要な役を託そうと考えたのか。それには少し説明がいる。

「シティボーイズ」と「ギャルズ」がテレビへ

 きっかけは「シティボーイズ」だった。

 大竹まこと、きたろう、斉木しげるという三人の男たちと、僕は『暫』での最後の2年半を共にし、劇団が消滅して彼らがコントグループを結成してからも、何かとその活動を手伝っていた。つかのもとで俳優をやりながらのことだ。

「シティボーイズ」の(左から)斉木しげる、きたろう、大竹まこと
 「シティボーイズショー」なる小さな催しが何度か行われるたび、あれこれ口出しするのが僕の役目だったが、その集大成として池袋のシアターグリーンという劇場で公演が行われることになった。たしか1980年に入った頃ではなかったか。

 このとき中身を少しでも派手にしようと僕が提案したのが、『暫』で一緒だった女優たち、岡本麗、田岡美也子、角替和枝の3人を「シティギャルズ」と名乗らせ、いくつかのコントに参加させるというものだった。それによりショーのオープニングも、タキシード姿の「ボーイズ」と赤いドレスの「ギャルズ」が音楽に乗って颯爽と登場し、挨拶する形を考えた。

 これを観に来ていたのが、フジテレビのディレクターたちだった。

 ちょうど漫才ブームなるものが始まろうとする頃である。のちに『オレたちひょうきん族』や『笑っていいとも』などでテレビのバラエティ界を席巻する、プロデューサー横沢彪チームの面々であり、この公演が気に入ったらしく、「シティボーイズ」は、テレビでの初レギュラーが決まるのだ。

フジテレビのプロデューサーだった横沢彪。数々の人気番組を手掛けた=1996年撮影
 おまけに単なる僕の思いつきで、実体のない「シティギャルズ」までが目を付けられ、ふた組で「お笑い大集合」という公開番組に、毎週出演することになる。そんな経緯から、気がつくと僕も「座付」のような立場で6人の出演に付き合うはめになってしまった。

 ただしそのメンバーの中に田岡美也子だけがいなかった。代わりにキャスティングされていたのはなぜか松金よね子だった。そのあたりの事情はわからない。ただ40年経った今でも、この話題になると田岡は口をとがらせ、松金に絡んでみせる。

 さて、その番組のオープニングは、タキシードとドレスの「シティボーイズ」「シティギャルズ」がステップを踏みながらステージに登場し、司会の月の家円鏡を迎えるというものだった。規模は違えど、シアターグリーンでのアイデアがそのまま使われたわけだ。

 続いて売り出し中の漫才コンビ「ツービート」など、レギュラー陣が紹介されたあと、最初のコーナーが6人でのコントというのが番組の流れだった。しかし毎週台本を渡され、文字からそれを立ち上げる作業は、とくにシティボーイズたちにとっては不慣れで、かなり苦戦した。

 そこで大竹らに頼まれ、僕がリハーサル時にその部分の演出的な役割を引き受けることになる。番組サイドからの了解もとったが、当然ギャラなどは発生しない。あくまでも6人との関係から生まれた、個人的な応援とでも言おうか。

 番組開始からしばらくの間、そんな立場が続いた。

 ようするに松金や岡本、田岡の中には、僕に対するこの時代の一連の記憶が残っていて、自分たちの芝居の演出をこいつに任せてみようという、無謀な発想に繋がったのだと思う。

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