今なお圧倒的なリアリティをもつ〈白州〉が想起させるアートの始原と芸術祭の原点
2023年02月05日
山梨県白州町(現・北杜市)。現在、全国津々浦々で様々な地域型芸術祭が開催されているが、その先駆ともいえるアートフェスティバルが、この南アルプスの麓の農村を舞台に今から30年以上も前に始まり、20年以上にわたって開催された。
だが、それは伝説のように、あまり語られることはなかった。その記憶を模り現在に蘇らせようという展覧会「試展―白州模写 <アートキャンプ白州>とは何だったのか」が千葉県は市原湖畔美術館で開催され、先月幕を閉じた。
白州での「祭り」を仕掛けたのは世界的ダンサー田中泯。昨年放送された「鎌倉殿の13人」でも鮮烈な存在感を放ち、役者としても活躍する彼は、77歳にして現役の“農夫”でもある。
私はこの展覧会を担当したのだが、調査を始めたところ、記録や資料が存外に少なく戸惑った。そこで田中をはじめとする関係者に会い証言を集めていきながら、<白州>の正体を少しずつ紐解いていった。その道程は、文字通り驚きと発見の連続であった。
まず驚いたのは、地域型芸術祭の嚆矢(こうし)といわれ、私自身も関わってきた「越後妻有 大地の芸術祭」(★)が始まる10年以上も前に農村を舞台にした国際芸術祭があったということだ。
「農村から都市を逆照射する」「芸能と工作」「大地との共存」……
私たちが越後妻有で掲げたテーマや課題が、すでに取り上げられていた。だが、何より驚いたのは、白州での20年に及ぶ祭りが、田中泯というひとりの人間の生理と直感に始まり、その強烈な身体性に貫かれていることだった。
★「越後妻有 大地の芸術祭」の詳細は「こちら」から
1985年、日本がバブル経済に向かい、都市への一極集中が加速する中、田中は身体・労働・自然の本質的で密接な関係に憧れ、仲間たちと共に新たな踊りの場を求めて白州に移住し、「身体気象農場」を開設する。農村にこそ芸能の源流があり、農作業での身体の使い方にこそ舞踊の原点があると考えたのだ。
空家は借りられたものの農地は借りられず、田中たちは農作業を手伝いながら、徐々に住民との信頼関係を築いっていった。お金は一切受けとらなかった。「かわりに米や野菜がどっさり届きました」
移設された塔は雨雪風に晒(さら)され、刻々と姿を変えていった。その様子に感応した田中は、旧知のアーティストたちに白州での制作を呼びかける。さらに踊りの仲間たち、これまで国内外でコラボレーションしてきた音楽家やパフォーマーたちにも声をかけ、「祭り」をしようと考えた。
都市と農村という二分法を越え、その境界に新しい文化と生き方を探る、舞踊・芝居・音・美術・物語・建築・映像・農業、あらゆるジャンルの表現が混交する3日間の祭りは、やがて生活と創造の過程に力点を置いた2カ月におよぶ「アートキャンプ白州」(1993~1999年)、「ダンス白州」(2001~2009年)と形を変えながら、有機体のように連動していった。
この祭りが、パフォーミングアーツではなく、美術をきっかけに始まったのは興味深い。農地(休耕田)や林という、都市の美術館やギャラリーとはまったく違うプロテクトされていない空間での制作。田中がアーティストたちに課した条件は、「土地を借りる交渉から制作まで、すべてアーティストが自分でやること」だった。
「他者の土地にものをつくる」。それは越後妻有でも同様だ。だが白州では土地の交渉からアーティスト自身が行っていた。
アーティストたちは、田中や身体気象農場のメンバーの応援を受けながら、地主たちにコンタクトをとり、プランを見せ、自ら交渉に当たった。土地を耕し、穴を掘り、泥んこになりながら制作するアーティストたちの姿に、町の人々は自分たちと同じ労働をしていると感じ、信用が育まれていく。
農民芸術を実践しようとした宮沢賢治にならい、自らを工作集団「風の又三郎」と呼んだ榎倉康二、高山登、原口典之をはじめとする全共闘世代のアーティストたちの熱量は、凄まじいものがあったのだろう。夜ごと酒を酌み交わしながら、本気で議論し、時にけんか寸前になったこともあったという。
白州にはジャンルや国籍、年齢を超えて多種多様な人々が集まり、混沌の中にエネルギーが充満していた。昼夜を問わず膨大な数のイベントやワークショップが行われた。ガマの口上からクラシック、前衛的なパフォーマンスまで、その多彩さに驚くほかない。
田んぼや道端、穴の中、アート作品で、ダンサーたちは即興的に踊った。本土で初めて沖縄県人会によるエイサーの公演が行われ、リチャード・セラの美術で舞踊劇「春の祭典」も公演された。マルセ太郎はノーギャラで「スクリーンのない映画館」を上演し、亡くなるまで毎年白州の舞台に立ち続けた。能の観世栄夫は毎年のように新作能やワークショップを開催した。
辺境の地を含む海外から、多くのパフォーマーたちが参加した。フリージャズのミルフォード・グレイブス、デレク・ベイリー、セシル・テイラーが演奏し、田中とコラボレーションした。
韓国のムーダン、ブータンの仮面舞踊、ベトナムの民族芸能、ロシア連邦トゥバ共和国のホーメイ、ハンガリー・ジプシーの歌と踊り、インド最古の舞踊「クーリヤッタム」。皆、海外で田中が踊りを通して出会った人たちだ。
1990年には、チェコスロヴァキアのビロード革命を担った芸術家たちがやってきた。彼らは田中を共産主義体制下のプラハに毎年のように招き、アンダーグラウンドで公演を組織していた人たちだった。<白州>は田中の身体を介して、世界の歴史と連動していたのだ。
中上健次、谷川雁、永六輔、山田洋二、フェリックス・ガタリ、スーザン・ソンタグ……。日本、世界の文化・思想史を彩るような人たちも<白州>の磁場に引き寄せられていった(木幡のパワーとネットワークは大きかった)。
そのひとりに戦後日本の国土開発を担った下河辺淳もいた。下河辺は推進会議の代表をつとめ、様々な形で<白州>を支え、<白州>を近代化の歴史に照らし合わせ「限りなく意味がある」と評した。
<白州>の魅力は、そうした“有名人”も表現者も、そしてボランティアも観客も、その空間にフラットに存在できたことだ。立ち上げから関わった象設計集団の樋口裕康は、白州では「人、場所ともにピラミッド構造のヒエラルキーを拒絶した」と語り、中心にいた田中はあくまでも「現場親方」だった。
「ひとつひとつの生命はこの地球上でどこまでも繋がっている。それを観念でなく身体を通して生きてきた。人と人の繋がりは秩序よりも群れでありたかった」
田中はそう語っている。
白州では必要なものは何でも自分たちで作った。何より田中自身がものづくりが大好きで、鶏舎もロバ小屋も自分で作っていた。竹の家、森の舞台、土の舞台、竹の舞台、さまざまな舞台が、ボランティア、建築ワークショップの参加者に村人たちも加わって、次々と作られていった。
樋口はワークショップで徹底的に労働させた。「体を動かすことは考えることの基本」だった。食事も自分たちが農場で育てた野菜や家畜を使って、みんなで作った。
<白州>はマニュアルは作らず、成果や目標も想定しなかった。継続することを目的にはせず、毎年話し合って開催するかどうかを決め、やる価値があるかを考え続けた。「あとには何も残さない」と田中はたびたび口にしていたと、
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