【56】多くの日本人が知らない実はラブソングなどではない「カチューシャ」の正体
2023年03月18日
「カチューシャ」(1938年)
作詞:ミハエル・イサコフスキー、訳詞:関鑑子、補訳:丘灯至夫
作曲:マトヴェイ・ブランテル
2月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に、若者や軍人など20万人が参加して、プーチンによるウクライナの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催され、その映像が日本のテレビでも流された。
冒頭を飾ったのは、軍服を着た兵士たちによる大合唱。その歌に私は驚くいっぽうで、その後の日本の反応に愕然とさせられた。その歌とは、
♪リンゴの花ほころび、川面に霞たちの……
の「カチューシャ」である。
それを指摘するニュース・コメントはなく、翌日の全国紙の記事にもその言及はなかった。さらに友人に確認してみたところ、それに気づいたのは少数で、しかも、気づいた友人に「これはロシアはやる気満々という重大メッセージだ」と誘い水をかけたら、キョトンとされた。
やっぱりそうか。これでは、日本はウクライナをめぐるロシアの動きを読み間違えると、私は危惧をいっそう強くした。
というのも、本連載の最終回でウクライナ問題を取り上げようと、友人とその家族にアンケートを実施したところ、その傾向がはっきりと出ていたからだ。
主な設問は以下である。
1) 「カチューシャ」を知っていますか?
2) 「カチューシャ」を歌えますか?
3) 日本で歌われている「カチューシャ」は「青春のラブソング」ですが、原曲はヒトラーによる侵略から「祖国を防衛する」ために戦場に赴いたソ連の若き兵士を恋人が励ます歌です。そのことを知っていましたか?
4) 「カチューシャ」は、ナチスドイツとの戦争で開発されたロケット砲の愛称でもあります。その後改良を重ね、現在もウクライナとの戦争のほか、親ロシアの諸国に供与されて市民を殺傷していますが、そのことを知っていますか?
100を超える回答がよせられたが、それを見ながら私はこれほどまでに日本人は「カチューシャ」の正体を知らないのかと驚かされた。
「カチューシャ」を知っているのは、60〜69歳で15人全員。70歳以上でも52人全員。「歌える」となるとやや下がるが、60〜69歳で15人中13人、70歳以上では52人中45人といずれも約87%もいる。
これに対し、50歳以下では、37人のうち「知っている」は9人(約24%)、「歌える」は4人(約11%)で、実に8割が「カチューシャ」の存在自体を知らない。
ただし、60歳以上のほとんどが「カチューシャ」を知っているといっても、受容度には濃淡があり、筆者の予想は大きく裏切られた。
設問3(「カチューシャ」は軍歌であった)を知っていたのは、60歳以上だと67人中10人(約15%)、設問4(ソ連製ロケット砲の愛称)を知っていたのは67人中7人(約10%)、で「カチューシャ」を知っている人々のあいだでも、ほとんどが「初耳」であった。
以上を整理すると、次のようになる。
・60歳以上は「カチューシャ」を「ほぼ知っている」のに対して、50歳以下は「ほぼ知らない」
・「知っている人」でも、この歌の「正体」である、「愛国歌」であり、兵器の愛称でもあることを「ほぼ知らない」
・もともと「知らない人」はこの歌の「正体」にはさっぱり関心がない。
ここから浮かび上がってくるのは、「カチューシャ」という歌の認知と受容をめぐる日本とロシアの大いなるギャップである。すなわち――
「カチューシャ」を愛唱しつつ、それを最強の兵器の愛称にもするロシア。そこには、今回のウクライナ侵攻へとつながるロシアの人々の戦争観とその内奥にある心情が深くかかわっている。かたや、「カチューシャ」を青春時代の懐かしのラブソングとしてのみ記憶して、それがウクライナで今も多くの人々殺傷している兵器の愛称でもあったことを知らない日本人。
このギャップにこそ、ロシアのウクライナ侵攻をどう読み解き、それにいかに対処すべきなのかへと向かうための想像力の欠如のみなもとがある。
連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」はこちらからお読みいただけます
いずれにせよ、日本人の「カチューシャ」理解はあまりにも無邪気すぎる。友人のアンケートにも、それを象徴する印象深いコメントがあった。
「ロシア民謡っていい歌が多いのに、どうして戦争なんか始めたんだろう」(74歳女性)
この疑問への私の答えはこうである。
「いい歌があるからロシアは戦争を始めたのだ」
あるいは、「ロシア人がよく戦えるのは、いい歌があるからだ」
こう言うと、アンケートに応えてくれたわが友人たちも読者諸賢も戸惑いを覚えるだろう。だが、私はそう確信を持っている。
とりわけ「カチューシャ」はロシア歌謡のなかでも、実によくできた「いい歌」である。かつて独ソ戦の最前線では兵士たちが「カチューシャ」を陽気に歌いながら戦い、銃後では彼らの帰郷をまちわびながらこの歌がうたわれた。「カチューシャ」ほどロシアの大地に生きる人々の心情と共振しつづけた歌はない。
迷走をきわめるウクライナ問題の核心を読み解くために、今こそ私たちは「カチューシャ」の正体を知らなければならない。
「カチューシャ」は、日本では、「ロシア民謡」と名付けられた歌謡ジャンルにくくられているが、正確にいうと古くからうたいつがれてきた「民謡」(フォークソング)ではない。おそらく多くの日本人の理解とは異なるだろうが、アメリカ生まれのジャズを出自とする「流行歌(ポピュラーソング)」である。
1917年10月(ロシア歴)、農民と労働者を主人公とした革命によって、「社会主義政権」が世界史上初めて誕生。成立当初から西欧の資本主義諸国とは、政治経済体制だけでなく文化芸術でも敵対的だったが、アメリカ生まれのジャズは例外であった。
それまで世界の中心だったヨーロッパが第一次世界大戦で戦場となったことで“漁夫の利”を得たアメリカは、「ジャズエイジ」と呼ばれる狂騒の20年代を謳歌。その文化シンボルであったジャズを、生まれたばかりのソ連は、容認するだけでなく、積極的に受け入れて「ソ連製ジャズ」が数多くつくられる。ジャズは奴隷として連れてこられた黒人たちの魂を癒す音楽であるとの理解から、これを「政治的な武器」として使えるかもしれないとの思惑によるものであった。
1920年代後半にはモスクワとレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)に、ご当地ジャズバンドが誕生。ソ連当局の肝いりで「国立ジャズオーケストラ」までつくられている。
1930年代に入ると、一転して、ジャズはソ連指導部から「俗悪的かつ頽廃的なブルジョワ文化のシンボル」としてやり玉にあげられ、一時は消滅の危機におちいる。しかし、第二次世界大戦が勃発、ナチスドイツとの戦いに赴く兵士たちを鼓舞するために、多くの慰問コンサートが開かれたことによって息を吹き返した。日本では戦時中、ジャズが「敵性音楽」として禁止され、戦意発揚のためにはもっぱら軍歌のみが許されたのとは対照的であった。
そんな状況下で「愛国歌謡」となったのが「カチューシャ」である。
その経緯は以下のようなものであった。
ソ連が第二次世界大戦に巻き込まれるのは、1941年6月にヒトラー率いるナチスドイツ軍の侵攻をうけてからだが、1936年にはじまったドイツによるポーランド進駐によって、すでに戦時色は増しつつあった。国境警備にあたる兵士たちを鼓舞する歌が求められていた。
それに応えたのが国立ジャズオーケストラの芸術監督であったマトヴェイ・ブランテルである。ブランテルが、それまでジャズをふくめて多くの流行歌謡をてがけてきたミハエル・イサコフスキーに作詞を依頼したところ、すぐさま歌詞をそらんじてみせた。その場でブランデルには軽快なジャズ調のメロディが浮かんだという。「カチューシャ」誕生の瞬間だ。
ただ、その時の歌詞は以下の2番までしかなかった。(筆者のロシア語の直訳を付した)
(1)
Расцветалияблони и груши,
Поплылитуманынадрекой.
ВыходиланаберегКатюша,
Hавысокийберег, накрутой.
リンゴやナシも花を開きはじめ
川面を霧が流れだす
カチューシャは岸に出てきた
高くて険しい岸の上に
(2)
Выходила, песнюзаводила
Простепногосизогоорла,
Протого, котороголюбила,
Протого, чьиписьмаберегла.
そぞろ歩きながら口ずさんむのは
草原の蒼い鷲のこと
愛しいあの人、
大切な手紙をくれるあの人のこと
これだけでは戦時色がますます濃厚になる時局には不十分だという判断からだろう。国境警備兵とその恋人を主人公にした3番と4番が付け加えられることになった。
それが以下である。
(3)
Ойты, песня, песенкадевичья,
Тылетизаяснымсолнцемвслед
И бойцунадальнемпограничье
ОтКатюшипередайпривет.
ああ歌よ、娘の歌よ
飛んで行け、輝く太陽を追って
遠き国境の兵士のもとへ
カチューシャからのことばを届けておくれ
(4)
Пустьонвспомнитдевушкупростую,
Пустьуслышит, каконапоет.
Пустьонземлюбережетродную,
А любовьКатюшасбережет.
兵士が素朴な娘を思い出すように
娘の歌うのが聞こえるように
彼が祖国の大地を守るように
そして、カチューシャが愛を守り通すように
連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」はこちらからお読みいただけます
賢明なる読者はお気づきのことだろう。日本語に訳されている「カチューシャ」とはずいぶん違うではないかと。そのとおりである。よく知られている関鑑子/丘灯至夫訳を以下にかかげる。
(1)
リンゴの花ほころび
川面に霞たち
君なき里にも
春は忍びよりぬ
(2)
川面に立ちて歌う
カチューシャの歌
春風優しく吹き
夢が湧く美空よ
(3)
カチューシャの歌声
はるかに丘を越え
今なお君をたずねて
やさしきその歌声
(4)
(1)の繰り返し
日本語の訳詞からは、オリジナルにある「戦争の匂い」がきれいに消され、ほほえましい健全な「平時」のラブソングになっている。これは、「カチューシャ」を戦後日本にもちこんだ日本共産党が、プロパガンダ活動の一環として主導してはじめた「うたごえ運動」で、「大衆受け」をねらったことによるのだが、これについての検証は別の機会にゆずる。
いずれにせよ、本来「愛国歌」であった「カチューシャ」は日本においては「ラブソング」になったのである。
こうして誕生した「カチューシャ」は、1938年11月21日に初演され、ブランテルが率いるジャズオーケストラの演奏をバックに、当時人気を誇っていた女性ジャズボカルのパチシェヴァが歌って好評を博した。その後、民謡風にアレンジされて、多くの歌手にカバーされ、国民的支持を広げていった。
初演から2年半後の1941年6月22日、ヒトラーが独ソ不可侵条約を一方的に破棄、電撃的にソ連領土に侵入した。すでにドイツに占領されたポーランドと国境を接するウクライナはまたたくまに蹂躙(じゅうりん)され、首都レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)も包囲された。建国まもない世界史初の労働者と農民の政府に崩壊の危機がせまる。
その中で祖国防衛のために戦場に赴いた兵士たちを励ます国民的シンボルソングとなったのが「カチューシャ」だった。当時この歌が戦渦のロシア人たちにたいしていかに熱伝導力をもったか、それを示すエピソードがある。
ひとつは、出だしを「自動小銃を持つ素朴な娘」と言い換えられた「女兵士のカチューシャ」や、同じく「カチューシャは包帯をしっかり巻いて」と言い換られた「従軍看護婦のカチューシャ」など50以上ものバリエーションを産んだこと。
もう一つは、独ソ戦の最中に開発された新型多連装ロケット砲が、いつしか誰がいうともなく、「カチューシャ」と名付けられ、こんな替え歌までつくられ流行したことである。
♪狼の目にアドルフ(ヒトラー)を見ろ
強盗をかわいがれ やさしくしてやれ
死後の夜を彼に望ませよう
風で骨をまき散らせ
♪ああ、きみ「カチューシャ」「カーチェンカ」よ
招かれざる客にご馳走をしろ
ウクライナのガルーシキをやつらにくわせろ
モスクワのシチューを熱く煮えたぎらせよ
(鈴木正美「戦時下ソ連のジャズと大衆歌謡における「声」」『人文科学研究』2016より)
興味深いことに、往時のウクライナとモスクワは、歌詞の最後にあるように、同じ「カチューシャ」という名の歌と最新兵器を携えて、共にヒトラーと戦う息のあった兄弟同志だったのである。
ちなみにロケット砲の「カチューシャ」は、戦時中に1万台以上がつくられ、軍用の装甲車両や装甲列車に搭載、その迫力ある轟音(ごうおん)から「スターリンのオルガン」による“死の葬送曲”と恐れられ、当初劣勢を強いられたソ連軍を挽回させ、勝利に大いに貢献した。
連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」はこちらからお読みいただけます
それにしても、なぜ、これほどまでに「カチューシャ」は国民的熱伝導力をもちえたのだろうか? それが私にとって半世紀以上も前からの疑念であった。
若かりし頃、たまたまロシア語を学んだ教材が「カチューシャ」だったため、この歌が日本で流布されている「青春のラブソング」などではなく、ある種の「軍国歌謡」であるとは知っていた。しかし、それにしては歌詞も緩いしメロディも軽い。これでは戦意高揚にはならないだろうと不思議だった。
今回、以下の指摘に行きあたってようやく手がかりが見えてきた。
――銃後の妻や家族を思い「必ず帰るよ」、そのためには「絶対に死なないで、この戦争を終わらせるんだ」という強固な意思を表明するメッセージを打ち出すことで、かえって戦意を高揚させることになる。戦時下のソ連では「死に打ち勝つ」という、あくまでも楽観的な歌が人々の心をとらえたのであり、政治権力がそれを利用したのだ。こうして個人の内面の「声」は、民衆すべての「声」となり、「戦争という物語」を共有することになったのである。(前掲鈴木正美論文)
「日常の延長にある明るく楽しい歌だからこそ戦意高揚になる」というパラドックスの指摘は、往時の日本の「欲しがりません勝つまでは」の戦意高揚策とは真逆で、示唆にとんでいる。
しかし、なぜ、このパラドックスが1930年代のソ連では成立しえたのか。これについては、高橋健一郎の以下の指摘に説得力がある。(「『ソビエト語』の言語空間――1930年代の大衆歌をめぐって」北海道大学スラブ研究センター、2005)
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