前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家
1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
【56】多くの日本人が知らない実はラブソングなどではない「カチューシャ」の正体
「カチューシャ」(1938年)
作詞:ミハエル・イサコフスキー、訳詞:関鑑子、補訳:丘灯至夫
作曲:マトヴェイ・ブランテル
2月22日、モスクワ中心部に近いルジニキ競技場に、若者や軍人など20万人が参加して、プーチンによるウクライナの軍事行動を鼓舞する大規模集会が開催され、その映像が日本のテレビでも流された。
冒頭を飾ったのは、軍服を着た兵士たちによる大合唱。その歌に私は驚くいっぽうで、その後の日本の反応に愕然とさせられた。その歌とは、
♪リンゴの花ほころび、川面に霞たちの……
の「カチューシャ」である。
それを指摘するニュース・コメントはなく、翌日の全国紙の記事にもその言及はなかった。さらに友人に確認してみたところ、それに気づいたのは少数で、しかも、気づいた友人に「これはロシアはやる気満々という重大メッセージだ」と誘い水をかけたら、キョトンとされた。
やっぱりそうか。これでは、日本はウクライナをめぐるロシアの動きを読み間違えると、私は危惧をいっそう強くした。
というのも、本連載の最終回でウクライナ問題を取り上げようと、友人とその家族にアンケートを実施したところ、その傾向がはっきりと出ていたからだ。
主な設問は以下である。
1) 「カチューシャ」を知っていますか?
2) 「カチューシャ」を歌えますか?
3) 日本で歌われている「カチューシャ」は「青春のラブソング」ですが、原曲はヒトラーによる侵略から「祖国を防衛する」ために戦場に赴いたソ連の若き兵士を恋人が励ます歌です。そのことを知っていましたか?
4) 「カチューシャ」は、ナチスドイツとの戦争で開発されたロケット砲の愛称でもあります。その後改良を重ね、現在もウクライナとの戦争のほか、親ロシアの諸国に供与されて市民を殺傷していますが、そのことを知っていますか?
100を超える回答がよせられたが、それを見ながら私はこれほどまでに日本人は「カチューシャ」の正体を知らないのかと驚かされた。
「カチューシャ」を知っているのは、60〜69歳で15人全員。70歳以上でも52人全員。「歌える」となるとやや下がるが、60〜69歳で15人中13人、70歳以上では52人中45人といずれも約87%もいる。
これに対し、50歳以下では、37人のうち「知っている」は9人(約24%)、「歌える」は4人(約11%)で、実に8割が「カチューシャ」の存在自体を知らない。
ただし、60歳以上のほとんどが「カチューシャ」を知っているといっても、受容度には濃淡があり、筆者の予想は大きく裏切られた。
設問3(「カチューシャ」は軍歌であった)を知っていたのは、60歳以上だと67人中10人(約15%)、設問4(ソ連製ロケット砲の愛称)を知っていたのは67人中7人(約10%)、で「カチューシャ」を知っている人々のあいだでも、ほとんどが「初耳」であった。
以上を整理すると、次のようになる。
・60歳以上は「カチューシャ」を「ほぼ知っている」のに対して、50歳以下は「ほぼ知らない」
・「知っている人」でも、この歌の「正体」である、「愛国歌」であり、兵器の愛称でもあることを「ほぼ知らない」
・もともと「知らない人」はこの歌の「正体」にはさっぱり関心がない。
ここから浮かび上がってくるのは、「カチューシャ」という歌の認知と受容をめぐる日本とロシアの大いなるギャップである。すなわち――
「カチューシャ」を愛唱しつつ、それを最強の兵器の愛称にもするロシア。そこには、今回のウクライナ侵攻へとつながるロシアの人々の戦争観とその内奥にある心情が深くかかわっている。かたや、「カチューシャ」を青春時代の懐かしのラブソングとしてのみ記憶して、それがウクライナで今も多くの人々殺傷している兵器の愛称でもあったことを知らない日本人。
このギャップにこそ、ロシアのウクライナ侵攻をどう読み解き、それにいかに対処すべきなのかへと向かうための想像力の欠如のみなもとがある。
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