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「カチューシャ」はウクライナ問題を読み解くリトマス試験紙である!〈前編〉

【56】多くの日本人が知らない実はラブソングなどではない「カチューシャ」の正体

前田和男 翻訳家・ノンフィクション作家

健全な「平時」のラブソングに

 賢明なる読者はお気づきのことだろう。日本語に訳されている「カチューシャ」とはずいぶん違うではないかと。そのとおりである。よく知られている関鑑子/丘灯至夫訳を以下にかかげる。

(1)
リンゴの花ほころび
川面に霞たち
君なき里にも
春は忍びよりぬ
(2)
川面に立ちて歌う
カチューシャの歌
春風優しく吹き
夢が湧く美空よ
(3)
カチューシャの歌声
はるかに丘を越え
今なお君をたずねて
やさしきその歌声
(4)
(1)の繰り返し

 日本語の訳詞からは、オリジナルにある「戦争の匂い」がきれいに消され、ほほえましい健全な「平時」のラブソングになっている。これは、「カチューシャ」を戦後日本にもちこんだ日本共産党が、プロパガンダ活動の一環として主導してはじめた「うたごえ運動」で、「大衆受け」をねらったことによるのだが、これについての検証は別の機会にゆずる。

 いずれにせよ、本来「愛国歌」であった「カチューシャ」は日本においては「ラブソング」になったのである。

独ソ戦の中で大ブレイク

拡大日本軍陣地めがけて一斉射撃するソ連軍カチューシャ砲=ソ連のドキュメンタリー映画「日本の撃滅」から。モスクワ赤旗勲章記録映画撮影所製作、ヘイフェツとザルヒ共同監督でB・ポポフ撮影

 こうして誕生した「カチューシャ」は、1938年11月21日に初演され、ブランテルが率いるジャズオーケストラの演奏をバックに、当時人気を誇っていた女性ジャズボカルのパチシェヴァが歌って好評を博した。その後、民謡風にアレンジされて、多くの歌手にカバーされ、国民的支持を広げていった。

 初演から2年半後の1941年6月22日、ヒトラーが独ソ不可侵条約を一方的に破棄、電撃的にソ連領土に侵入した。すでにドイツに占領されたポーランドと国境を接するウクライナはまたたくまに蹂躙(じゅうりん)され、首都レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)も包囲された。建国まもない世界史初の労働者と農民の政府に崩壊の危機がせまる。

 その中で祖国防衛のために戦場に赴いた兵士たちを励ます国民的シンボルソングとなったのが「カチューシャ」だった。当時この歌が戦渦のロシア人たちにたいしていかに熱伝導力をもったか、それを示すエピソードがある。

 ひとつは、出だしを「自動小銃を持つ素朴な娘」と言い換えられた「女兵士のカチューシャ」や、同じく「カチューシャは包帯をしっかり巻いて」と言い換られた「従軍看護婦のカチューシャ」など50以上ものバリエーションを産んだこと。

 もう一つは、独ソ戦の最中に開発された新型多連装ロケット砲が、いつしか誰がいうともなく、「カチューシャ」と名付けられ、こんな替え歌までつくられ流行したことである。

♪狼の目にアドルフ(ヒトラー)を見ろ
強盗をかわいがれ やさしくしてやれ
死後の夜を彼に望ませよう
風で骨をまき散らせ
♪ああ、きみ「カチューシャ」「カーチェンカ」よ
招かれざる客にご馳走をしろ
ウクライナのガルーシキをやつらにくわせろ
モスクワのシチューを熱く煮えたぎらせよ
(鈴木正美「戦時下ソ連のジャズと大衆歌謡における「声」」『人文科学研究』2016より)

 興味深いことに、往時のウクライナとモスクワは、歌詞の最後にあるように、同じ「カチューシャ」という名の歌と最新兵器を携えて、共にヒトラーと戦う息のあった兄弟同志だったのである。

 ちなみにロケット砲の「カチューシャ」は、戦時中に1万台以上がつくられ、軍用の装甲車両や装甲列車に搭載、その迫力ある轟音(ごうおん)から「スターリンのオルガン」による“死の葬送曲”と恐れられ、当初劣勢を強いられたソ連軍を挽回させ、勝利に大いに貢献した。

連載「嗚呼!昭和歌謡遺産紀行〜あの時、あの場所、あの唄たち」はこちらからお読みいただけます


筆者

前田和男

前田和男(まえだ・かずお) 翻訳家・ノンフィクション作家

1947年生まれ。東京大学農学部卒。翻訳家・ノンフィクション作家。著作に『選挙参謀』(太田出版)『民主党政権への伏流』(ポット出版)『男はなぜ化粧をしたがるのか』(集英社新書)『足元の革命』(新潮新書)、訳書にI・ベルイマン『ある結婚の風景』(ヘラルド出版)T・イーグルトン『悪とはなにか』(ビジネス社)など多数。路上観察学会事務局をつとめる。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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