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キャンディーズの解散コンサートは、なぜ社会現象になったのか?

ファン参加型アイドル文化の原点

太田省一 社会学者

 前回述べた通り、コンサートのステージ上でキャンディーズは突然の「解散宣言」をおこなった。「年下の男の子」のヒット以来人気もぐんぐんと高まっていたときだけに衝撃は大きかったが、その後の解散に至る展開もまた前例のないようなものだった。今回はその道のりを振り返るとともに、それがアイドル史にもたらしたものを考えてみたい。

「解散宣言」はどのようになされたか

 1977年7月17日。その日キャンディーズは、東京の日比谷野外音楽堂でコンサートを開いていた。「キャンディーズ・サマージャック'77」と題されたツアーの初日である。6000人の観客を前に、自分たちのヒット曲だけではなく、ロックナンバーなども織り交ぜて披露した。また当時話題だった映画『ロッキー』をテーマにしたミニミュージカルも盛り込むなど、意欲的な構成だった。そして最後のナンバーである「ダンシング・ジャンピング・ラブ」まで、コンサートは無事に進む。

 ところが、そこでラン(伊藤蘭)が「私たち、皆さんに謝らなければならないことがあります」と切り出す。そして次いで出てきた言葉が、「私たち、今度の9月に解散します」というものだった。

 「ごめんなさい」などと謝りながら、ステージ上で抱き合い泣き続ける3人。そのなかでランが叫んだのが、「普通の女の子に戻りたい」という言葉だった。現役人気アイドルが口にした衝撃的とも言えるこのフレーズはメディアでも大きく取り上げられ、流行語にもなった。

 周囲も知らなかったとされるこの突然の「解散宣言」は、当然ながら大きな波紋を呼んだ。ヒット曲を連発して『NHK紅白歌合戦』にも連続出場し、また大規模な全国ツアーも成功させるなど、少なくとも傍目からは順風満帆に見えたからである。この宣言の翌日、3人は緊急記者会見を開き、解散について改めて説明した。なぜ解散しなければならないのかについて問いただすような質問もあったが、すでに彼女たちの意思は固かった。

 ただ、解散の時期は延びた。宣言の言葉にあるように、3人は1977年9月での解散を考えていた。だが周囲との話し合いもあり、解散時期は翌年4月まで先延ばしされることになる。

ライブを重視したキャンディーズ

 「解散宣言」から解散に向けての約9ヶ月は、アイドル史においても特筆すべき密度の濃さだったと言えるだろう。

キャンディーズの最後のコンサート「ファイナルカーニバル」=1978年4月4日、後楽園球場拡大キャンディーズの最後のコンサート「ファイナルカーニバル」=1978年4月4日、後楽園球場
 解散宣言以降も途切れることなくコンサートツアーは続いた。そして1978年3月からは、福岡を皮切りに全国8都市での「ありがとうカーニバル」が実施された。そして最後を飾ったのが、後に語り草となる1978年4月4日に後楽園球場で開かれた解散コンサート「ファイナルカーニバル」である。

 元々、キャンディーズは、当時においては珍しくライブ活動を重視したアイドルだった。初のコンサートは1974年、東京・山野ホールでのもの。熱心なファン800人が集まり盛り上がりはしたものの、かなり空席も目立った。この苦い経験を活かしてのライブにおける成長のプロセスが、そのままキャンディーズというアイドルの成長でもあった。

マネージャーだった大里洋吉拡大キャンディーズのマネージャーを務めた大里洋吉・アミューズ会長(前列中央)=2011年
 そこには、マネージャーだった大里洋吉の存在も大きかった。「渡辺プロに付き人はいらない。マネージャーはみんなプロデューサーだ」というのが当時の渡辺プロダクション(ナベプロ)の考えかただった(野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男~渡辺プロとその時代』、165頁)。大里は、ナベプロに在籍した後独立して1977年に芸能プロダクション「アミューズ」(いうまでもなく、現在Perfumeの所属する事務所である)を設立するのだが、ナベプロで最後に担当したのがキャンディーズだった(アミューズ設立後も、契約マネージャーとしてキャンディーズを担当)。

 そこで大里洋吉は、ライブのやりかたをよりロック志向のものへと転換する。バックバンドにMMPという一流ミュージシャンによるブラスロックバンドを起用したのもその一環で、これとともにキャンディーズのステージは様変わりし、洋楽のカバーも定番となっていく。それは、「テレビの歌番組に出て用意されたビッグバンドの伴奏で歌う歌手」というアイドル歌手、あるいは歌謡曲歌手の固定観念を覆すものでもあった(『Re:minder』2018年2月25日付記事)。


筆者

太田省一

太田省一(おおた・しょういち) 社会学者

1960年、富山県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビ、アイドル、歌謡曲、お笑いなどメディア、ポピュラー文化の諸分野をテーマにしながら、戦後日本社会とメディアの関係に新たな光を当てるべく執筆活動を行っている。著書に『紅白歌合戦と日本人』、『アイドル進化論――南沙織から初音ミク、AKB48まで』(いずれも筑摩書房)、『社会は笑う・増補版――ボケとツッコミの人間関係』、『中居正広という生き方』(いずれも青弓社)、『SMAPと平成ニッポン――不安の時代のエンターテインメント 』(光文社新書)、『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』(双葉社)など。最新刊に『ニッポン男性アイドル史――一九六〇-二〇一〇年代』(近刊、青弓社)

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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