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北九州の街の記憶、世代を超えて劇場がつなぐ

若手劇作家が高齢者と出会い、物語紡いで

山口大器 劇作家・演出家・俳優

劇場にひかれて進学、北九州の「記憶」を聞く

 大学進学と共に北九州にやってきて、9年になります。

 それまでは、同じ九州の福岡市で生まれ育ち、北九州といえば「八幡製鉄」「環境問題」「スペースワールド」など、教科書で知った名前が浮かぶ程度の街。演劇と出会い、演劇一色だった高校生の頃の私は、北九州には「北九州芸術劇場」があるらしいという噂を頼りに進学先を選び、その後大学で同級生と「劇団言魂」を結成、劇作家・演出家・俳優として演劇活動を始め、今に至ります。

 その北九州芸術劇場が2012年から実施している「Re:北九州の記憶」という企画があります。

 これは、北九州在住の高齢者を地域の劇作家が訪問してインタビューを行い、伺ったお話の中から作家が短編劇を創作するもの。講師による戯曲講座でのブラッシュアップを経て、演劇公演を劇場で行います。私は2019年から劇作家としてこの企画に関わっています。先日、11年続いてきたこの企画の一つの節目として本公演が北九州と東京で上演され、私にとっての「Re:北九州の記憶」について振り返るべく、このテキストを書いています。

 2018年ごろ、大学を卒業してもう少し演劇活動を続けていこうと決めていた頃、「作家として『Re:北九州の記憶』に参加しませんか?」とプロデューサーの吉松寛子さんに声をかけてもらい、二つ返事で参加を決めました。

 私の場合(多くの劇作家がそうだと思いますが)通常戯曲を書く時には自分の経験や考えを頼りに創作を始めますが、高齢者のエピソードを元に創作するとはどういうことか、自分の外側をきっかけに戯曲を書くとどうなるのか、面白そうだと思ったのです。(戯曲講座で面白い戯曲の書き方教えてもらえるじゃん、ラッキー!という気持ちもありました)

「君といつまでも~Re:北九州の記憶~」の舞台(©藤本彦、北九州芸術劇場提供)

 舞台「君といつまでも~Re:北九州の記憶~」は、演劇を通して個人の記憶を後世に伝えてゆくことを目的に始めた事業のまとめとして、北九州芸術劇場(2023年2月23~26日)と東京芸術劇場シアターイースト(3月3~5日)で上演された。地元の若手劇作家が執筆してきた物語をもとに、指導役として関わってきた内藤裕敬が脚本・構成・演出を手掛け、新たに、北九州に生きた人々の群像でつづる「街の記憶」の物語を作った。

2時間のインタビューから物語を見つける

 「Re:北九州の記憶」の参加劇作家は(年によって変わりますが)5〜6人です。インタビュー協力者は公募で毎年約10人程度集まります。募集の段階でいただいたプロフィールを元にどの方にお話を伺うか希望を取り、高齢者1人に対して2人の劇作家がインタビューを担当することになります。つまり、劇作家は毎年3〜4人の高齢者からお話を伺うことになります。

「Re:北九州の記憶」で、高齢者にインタビューする(北九州芸術劇場提供)
 高齢者の方へのインタビューは時間にして約2時間。インタビュー協力者のお家に訪問することもあれば、劇場の事務所でお話を伺うこともありました(新型コロナウイルスの流行以降は、劇場の事務所でしたが……)。時には「その場所はすぐそこなんだよ、行ってみようか」とインタビュー後にフィールドワークが始まったこともありました。「このときの写真はこれでね……」と写真や記事をスクラップにしたものを引っ張り出して見せていただくこともありました。高齢者の方にインタビューするのはとても面白いですが、「このインタビューの中から戯曲の種を見つけなければいけない!」という妙な緊張感もあります。

 戯曲の執筆は、劇作家1人につき2作、15分〜20分程度の短編作品です(ですので、インタビューが終わった段階で、誰がどの方のエピソードを担当するかの調整が入ります。インタビュー協力者1人につき、最低でも1作、希望する劇作家が多ければ2作の戯曲が生まれます)。創作は個人の作業ですので、一緒にお話を伺っても合作などは行いません。同じ話を聞いても、作家によって興味を持つポイントが違うので、「これ本当に同じ人から聞いた話?」というような色の違う作品が生まれます。

 お話を聞いたあとには、図書館やインターネットで資料を探したり、人によっては後日追加でインタビューする場合もありますが、基本的には演劇としてどう面白くするかが焦点になってきます。一旦自分で書き上げた後は、他の劇作家の皆さんと一緒に戯曲を読み合わせ、「この方のお話は、この部分が面白いから、ここをもっと遊んで書きなさい」などと講師である南河内万歳一座の内藤裕敬さんにアドバイスをいただきます。

 そうしてブラッシュアップを重ねて、完成した戯曲の中から6〜7作が選ばれ、オムニバス形式での上演を行います。年によっては台本を持って読みながら上演をするリーディング公演や、1ヶ月ほど稽古をして通常の演劇公演として、発表公演を行います。

 私は、2019年に4人、2021年には3人の高齢者の方からお話を伺いました(2020年は新型コロナウイルスの関係でインタビューは中止)。かつて北九州を走っていた西鉄電車の運転手をされていた80代の男性や、小倉出身で新聞記者として各地を飛び回っていた70代のご夫婦など。そこから、5本の戯曲を執筆しました。

原爆投下の日、松根油を掘っていた

 初めてインタビューをしたのは、当時84歳の方。その方は戦時中の1945年8月9日、北九州市の若松区高塔山に松根油を採集させられていたそうです。松の皮を削り滲み出た油を石油の代わりに使おうとしていたと伺いました。

 「へ〜」と、そんなこと知らなかった私はそこに食いつきました。8月9日といえば、長崎に原子爆弾が投下された日。北九州は当時軍事拠点でもあり、原子爆弾投下予定地でありながら悪天候により変更になった街です。「後から思うと、あの飛行機が特殊爆弾(原子爆弾)を積んでいたとわかった」と語るその方の目は確かに当時を思い返していたようでした。

 しかし、いざそのことを戯曲にしようと思い、踏み込んだ質問をしてみても、思うように回答が得られません。私も高齢者にインタビューをし慣れていないのでどう聞いていいか迷うし、その方も覚えていることとぼんやりしていることが混ざって、一苦労です。自分の祖父祖母ならもう少し遠慮なく聞けるのに、みたいなことを思い、そうしてあっという間にインタビューは終了しました。

 戯曲を書く場合に、その細かい状況(場所や、時間)や登場人物を設定せねばなりません。インタビューを聞いた限りでは、そこまで具体的なエピソードは聞けず、想像で補わねばなりませんでした(もちろん、資料などは図書館やインターネットで調べたりもしましたが)。

インタビューをもとに書いた戯曲をブラッシュアップする講座(北九州芸術劇場提供)
 そこにどういう人たちがいたのか、どんな会話をしたのか、どういう関係なのか、自分の経験で例えるとどういうことなのか。インタビューでいただいた記憶のかけらを頼りに、人物や状況を練りながら、エピソードの空白を想像して戯曲にしていきました。

 これは、きっと事実とは異なります。実際の出来事ではないでしょう。

 しかし、戯曲の執筆をする過程で、不思議なことが起こりました。

 エピソードを自分の想像を介して、セリフにしていくと、実際にそういうことが起こったのかもしれないと実感を伴う気がしてくるのです。実際にその山で松の皮を削っていた少年がいて、日本の戦況にさまざまを思いながら、高塔山から飛行機を見上げた少年がいたのだと信じられるのです。想像の中で、エピソードと私のいるその街が地続きであることを感じるようになりました。

「余白」があるから「自分ごと」に

㊧空襲で焼け野原になった1946年の八幡市街、奥は八幡製鉄所(現・北九州市八幡東区)㊨スペースワールドと八幡製鉄所の高炉=北九州市八幡東区、1993年撮影

八幡市(現北九州市八幡東区)を走る西鉄北九州線の路面電車=1960年撮影
 演劇の場合、いくら作り込んでも完全に再現はできません。そもそも場所は劇場の中だし、舞台美術でその場を再現するのにも限界があります。場面をコロコロ変えるわけにもいかないので、描かれないシーンがあります。

 演劇には俳優や観客の想像力に任せる余白がたくさんあります。もしかしたら、その余白が高齢者のエピソードを自分ごととして客席に体験させるのかもしれません。そして体験された記憶は、私が戯曲を執筆したときのように想像を頼りに過去を実感を伴って観客の中に呼び起こされるのではないでしょうか。

 そして、観客の記憶をも呼び起こし、「そういえばこういうこともあった」「私はこういうことがあった」と語られるはずのなかった記憶が再び掘り起こされるかもしれません(実際に、ご来場された方が、そうやって思い出話をたくさんされた、と伺いました)。それはとても豊かな出来事です。

 私にとって、インタビュー協力者の方は自分の祖父母の世代と変わりません。そして祖父母からも、こうしてまとまって、そして改まって話を聞くことはなかなかありませんでした。戯曲を書くという目的がないと、少し照れ臭かったり、今度でいいかと諦めたりするのですね。ですが、改めて、自分の祖父母にも直接話を聞かなければ、と考えるようになりました。

 想像力で補う、と書きましたが全く何もないところから想像はできません。実際にその方の話し方、当時を思い返していた時の目線、装い、あるいはその方の住んでいる家や見せていただいたアルバムの手触りなど、実際にその方にお会いして、目の当たりにすることで、想像力は膨らみました。先ほど「余白」と書きましたが、その余白とは、簡単に言葉にすることができない、長い時間がそうさせているのかもしれません。

個人の体験が、豊かな「街の記憶」に

「君といつまでも~Re:北九州の記憶~」の舞台(©藤本彦、北九州芸術劇場提供)

 今、いろんな情報に溢れている現在、インパクトの強いもの・新しいもの・分かりやすいことが簡単に広まる時代において、その肉感を伴った余白は人と人が繋がることや、話を直接聞くことの重要性を教えてくれるのではないかと思いました。そして、私にとってその体験は、演劇で、観客に何かを渡すことの意味を教えてくれていたと思います。

 本当の出来事を後世に伝えるのであれば、きっと写真や映像、などが有効でしょう。もちろん、事実をきちんと後世に残すアーカイヴも重要です。

 ですが、個人の体験で、それでいて不確かな「記憶」は、演劇という方法で不確かなまま観客の記憶を呼び覚まします。そして、豊かな街の記憶として、当時を知らなかった私たちにさえ、この街のこれまでを体験させると思うのです。そうして、先輩たちが歩んできたこれまでを振り返り、自分ごととしてこの街を見つめ、ひいてはこれからの私たちに問いかけてくるのではないでしょうか。

 私たちはこれからどんな記憶を紡いでいくのか。この街がどうなっていくのか。「Re:北九州の記憶」で掘り起こされた記憶たちは、もしかしたらこれからの私たちへの宿題なのかもしれません。

 いつか、私の祖父母にも、インタビューをして、記憶を戯曲化してみようとこっそり思っています。