2023年04月06日
ダリオ・アルジェント監督の85分の新作『ダークグラス』(4月7日公開)を見ながら、この映画や監督のイタリア映画史における位置づけを考えていた。筆者は2月に『永遠の映画大国 イタリア名画120年史』を出したばかりで、この1年半ほどイタリア映画史の広大な森の中をさまよっていた。そこからようやく抜け出してこの映画を見ると、これが何とも愛すべき映画に見えてくる。
1940年生まれで現在82歳のダリオ・アルジェントは、1939年生まれのマルコ・ベロッキオや1941年生まれの故ベルナルド・ベルトルッチと同世代である。この世代は「イタリアにおけるヌーヴェルヴァーグ」と言えるだろう。つまり根っからの映画好きで従来の撮影所を離れて自由な映画作りを始めた若者たちである。ヌーヴェルヴァーグとはフランスで始まった映画革新運動として有名だが、似たような動きが日本やチェコやブラジルなどでも1960年前後に同時多発的に起きた。その中心となったのは、昨年(2022年)亡くなった1930年生まれのジャン=リュック・ゴダールに代表される30年前後に生まれた世代だった。
だがイタリアでは1960年前後はまだ20世紀初頭に生まれたロベルト・ロッセリーニやルキーノ・ヴィスコンティやヴィットリオ・デ・シーカなどのネオレアリズモ世代が活躍中で、彼らの助監督をしてその影響を直接受けたフェデリコ・フェリーニ(1920年生まれ)やミケランジェロ・アントニオーニ(1912年生まれ)が絶頂期にあった。1960年にヴィスコンティ『若者のすべて』、フェリーニ『甘い生活』、アントニオーニ『情事』という世界映画史に残る3本の傑作が作られたことを考えれば、それはよくわかる。だから下の世代は表舞台には登場できなかった。
ダリオ・アルジェントはまず映画批評を書くことで映画界に近づいてゆく。この点もゴダールなどと同じ。そして1960年代後半からギャング映画やマカロニ・ウエスタン、ホラー映画などのジャンル映画の脚本を書き始める。特筆すべきはセルジオ・レオーネ監督の傑作西部劇『ウエスタン』(1968年)の原案にベルナルド・ベルトルッチと共に参加していることだろう。
彼は1970年に『歓びの毒牙』で長編デビューを果たす。この監督が有名になるのはもちろん『サスペリア』(1977年)からで、『インフェルノ』(1980年)、『フェノミナ』(1985年)と独特の色彩感覚に満ちた作品を残した。今回の『ダークグラス』はそれらのきらめくような傑作群に比べたら、肩の力が抜けたようなジャンル映画の小品だ。しかしそれゆえにあちこちにセンスが光っている。
まず題名がいい。原題はOcchiali neriでまさに「ダークグラス」なのだが、もちろん「黒い眼鏡」=「サングラス」のこと。このシンプルでいかにもフィルムノワールを思わせる題名通り、主人公のディアナ(イレニア・パストレッリ)はほぼ全編にわたってサングラスをかけたりはずしたりする。
冒頭、赤いシャツを着て唇に真っ赤な紅を塗ったディアナは、スマホを太陽にかざして日食を撮影しようとする人々を奇異に思いながら、まぶしいので黒いサングラスをかける。日食を撮影している人々の姿が実に奇妙でシュールで、フランスの写真家ウジェーヌ・アジェの《日食の間》(1912年)を思い起こさせる。その後に主人公は再びサングラスをかけることになるのだが。
クレジットが始まり、ホテルの泊まり客の部屋から出た娼婦が喉を掻き切られて殺される事件が起こる。何とも陰惨な出だしだが、ディアナも同じ職業のようで異常な要求をするホテル客の部屋から抜け出して車で逃げたところ、白いバンに追いかけられる。そして追突されて、近くの車も巻き込んでしまう。意識が戻ったディアナは病院で失明したことを告げられて、泣きながら黒いサングラスをかける。ここまででおよそ20分だが、全く無駄がない。
ディアナは娼婦の殺害が続いていることを警察に告げられる。彼女は歩行訓練士のリータ(監督の娘のアーシア・アルジェント!)や盲導犬ネリア、そしてディアナの事故で父親を亡くし母親が意識不明となった中国人少年チンの助けを借りて何とか新しい日々を歩みだす。
彼女は再び売春を始めて生活は回り始めたが、施設を嫌うチンが同居し始めると、警察は施設から連絡を受けてチンの捜索を始める。盲目の娼婦と身寄りのいない中国人少年のコンビが絶妙だ。
この監督は似たような組み合わせを3作目『わたしは目撃者』(1971)の盲目の元記者と姪の少女のコンビで見せていたが、15年間盲目ですべてがお見通しの元記者に比べて、『ダークグラス』のディアナはもっと危うい存在だ。ディアナとチンは終盤、警察と白いバンの男の両方に追われる。これからは何が何だかわからないほどの混乱ぶりだが、警察官も含めて何人もが死んでゆくなか、ディアナとチンは何とか切り抜けてゆく。そして爽やかなラスト。
『わたしは目撃者』もそうだったが、終わりのあたりで盲目の主人公はサングラスをはずす。まるで目が見えないことを恥じずに堂々と生きてゆく宣言のように。そして再びサングラスをして犬と共に去る。当たり前だがサングラス=ダークグラスをつけたら、映画は見ることはできない。この映画はどこかサングラスをつけたりはずしたりすること自体が影のドラマになっており、まるでメタ映画のようでもある。
盲目の娼婦にプラスして中国人と少年という徹底的なマイノリティの2人が盲導犬や歩行訓練士の助けを借りて何とか生活を始める形がいい。ほとんど社会派の映画のようにさえ思えてくる。盲目となった娼婦に客がつぶやく「醜い自分が見られないからこの方がいい」という台詞など何とも味わい深い。そこに警察と謎の男からの二重の追跡が始まるが、2人は軽やかに生き延びる。謎の男の正体は腰が抜けそうなくらいつまらないが、それも含めて何とも洒落た映画である。
ダリオ・アルジェントの映画は「ジャッロ」(=黄色)と言われるが、
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