2023年04月07日
「舞いあがれ!」は口数少なめの佳作だから、脚本家はもう変えないで
朝ドラ「舞いあがれ!」(NHK)の最終回、ヒロイン・舞(福原遥)は空飛ぶクルマ「かささぎ」を操縦、長崎・五島上空を飛んだ。幼い日に出会ったバラモン凧、ネジ工場を経営する父が作りたかった飛行機、大学で出会った人力飛行機、そこから目指したパイロット。いったんはあきらめたものの、最後に空を飛べた。よかったねー、おめでとう。
という気持ちにはならなかった。「舞いあがれ!」が好きだったし、舞のことも応援していた。なのに気持ちが舞いあがらない。後半、舞がただのラッキーガールになってしまったのだ。座っているだけで、良いことが飛び込んでくる。ふーん。と見ていたから、舞が舞いあがってもこちらの気持ちは舞いあがらない。
「舞いあがれ!」が好きだったのは、「繊細で優しい」が「生きづらい」になりがちな昨今にあって、「繊細で優しいは、長所だよ」と言っているからだった。リアル社会でもSNS世界でもイケてる自分をアピールしなければならないのだから、しんどいと思う。だけど舞と貴司(赤楚衛二)と久留美(山下美月)は子どもの頃から繊細で優しく、大人になってもその雰囲気がなくならなかった。だから「大丈夫、繊細で優しいは長所だよ」という空気が全編に流れていて、それが一番好きだった。
舞はつかみかけたパイロットという職業を手放して、家業のネジ工場を選んだ。貴司はノルマの厳しい会社についていけず、辞表を出して姿を消した。看護師になった久留美は医者からプロポーズされたが、そいつは親のいいなりになるダメなヤツだった。そんなこんなで「ど真ん中」にはいない3人。それでも構わないと肯定していた。それだけではなく、その先も見せようとしたのが「舞いあがれ!」だったと思う。
心に何かを持っていれば、生きづらくならないよ。そういう「何か」を提案しようとしていた。そう思わせてくれたのは、舞の夫になる貴司だった。貴司は古書店デラシネの店主・八木のおっちゃん(又吉直樹)の導きで短歌をつくる。会社を辞めて逃げ出した五島で、舞と久留美に自分を語った。いわく、人とぶつかるのが怖くて合わせているうちに、自分が何をしたいのかわからなくなった。自分のまま生きていけるところを探しにいろいろな場所に行きたい、そこで短歌をつくる──。表現は自己肯定になる。貴司のそこからの生き方、後に開いた「子ども短歌教室」、それを通して伝わってきたことだ。
<『舞いあがれ!』に短歌が出てくるのは、短歌というものが、弱い立場の人の小さな声まで拾い上げてくれるからです。そして、そのたった31音が、時に他人の人生を変えるほどの力を持つからです>
「舞いあがれ!」内の短歌や詩(つまり桑原作品)が5月に出版される。それを告知する版元のホームページに載っていた。
3人の中で一番繊細な貴司は、最後まで苦しむ役割を与えられた。舞と結婚して子どもも生まれ、幸福なのに短歌が出てこない。八木のおっちゃんの再度の導きで、貴司はパリに行く。2020年1月だった。コロナ禍でパリはロックダウン、日本でも緊急事態宣言が出され、帰国できなくなる。それを救ったのは、やはり言葉だった。舞へ手紙を書くように、パリで起きたことを記録する。それで貴司は復活する。
自分の中に何か、核心という表現でいいだろうか、そういうものを持てば、人は強くなれる。そういう桑原さんのメッセージを体現していたのが貴司だったと思う。
では、舞の核心はなんだったのか。実は、そこが心もとない。いつも一生懸命で、目の前に起こることに全力であたる。舞はそういう人だった。大学の人力飛行機サークルではけがをした先輩に代わって懸命にパイロットを務め、航空学校では友と一緒に課題をクリアしたいと頑張っていた。「パイロットの内定辞退→家業のネジ工場を助ける」もその延長線だったろう。
リーマンショックの描写にとても力が入っていたから、その選択は理解できなくはなかった。自動車不況に直撃され、それでも何とかリストラを回避しようとしていた舞の父(高橋克典)。亡くなるまでの奮闘が、時間をかけて丁寧に描かれたからだ。とはいえ舞になぜパイロットの夢をあきらめるのかと尋ねる人は大勢いた。舞の答えは「工場がなくなるのはいや、お母ちゃんを助けたい」の一点張り。そこから最後まで、舞の内なる核心が何なのかは描かれなかった。
もしかすると桑原さんは、「核心を見つけられない」ことへの肯定を描いたのかなとも思う。貴司が「短歌」と出会えたのは、八木のおっちゃんがいたからこそ。そういう幸運は、誰にでもあるとは限らない。それでも大丈夫だよ。そう訴えるため、優しさを原動力に、ひたすら何かに対処するヒロインにしたのかもしれない、と。
親ガチャという言葉を聞いた時、大抵の人はドキッとしたはずだ。ある種の事実を言い当てているから。そんな時代に、舞というヒロインは「起きたこと」に対応し続ける。そのことの素晴らしさが伝われば、優しくて繊細で、親ガチャに当たってない、案外多数派の人たちへの励みになる。だから、舞には最後に「光」をあげよう。誰にでもご褒美はある。それを描こう。そんな判断だったかもしれない。
と、整理してみた。が、どうにも説得力のない展開になっていった。舞にとっての「光」が、最初から決まっていた、それが最大の問題だったと思う。タイトルが「舞いあがれ!」で名前が「舞」なら、最後は飛ぶしかない。飛ぶという光にたどりつくこと、「起きたこと」に対応する日々を肯定すること。その二つがうまく結びついたら鮮やかなフィニッシュになっただろう。だが、そうはならず、帳尻合わせになってしまった。
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