見学にハードル、見えない近代化の「影」
2023年04月13日
東京の大江戸線・若松河田駅から5分ほどの場所にある「産業遺産情報センター」に出かけたいと考えながら、なんとなく気が重かった。
産業遺産情報センターのHPを見ると平日の午前10時から17時までが開館時間で、土曜、日曜、祝日、年末年始は休館日とある。
博物館、美術館などが独立行政法人となり、来館者を集めるために土日の開館は当たり前、時には曜日を決め、夜間時間帯の開館を定めているこの時代の公共施設としては特異だ。そのうえ、見学のためには事前予約が必要となっている。事前予約ではガイド付きの見学かガイドなしの見学を選ばなければならない。
率直に言って、現在の産業遺産の政策について批判的な見学者はなるべく寄せ付けたくないと、そう語っているような予約フォーマットだ。
内閣官房HPの「産業遺産情報センターの開所について」と題したページでは以下のような説明が掲げられている。
産業遺産に関する総合的な情報センターとして、同センターでは、平成27年7月にユネスコ世界遺産委員会において世界文化遺産として登録された『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』を中心とした産業遺産に関する情報発信を行って参ります。
ユネスコ世界遺産登録と合わせて作られた施設である。
産業遺産情報センター 5県23件の資産をまとめた「明治日本の産業革命遺産」は、2015年にユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録された。だが、審査の過程で、韓国から「自国民が強制労働させられた施設が含まれている」と問題視、日本側は「適切な措置を説明戦略に盛り込む」と約束し、ユネスコの世界遺産委員会は「各資産で包括的な歴史が理解されるための措置について日本の発言に注目する」との補足事項をつけた。それに応えるため、2017年に同センターが開設されたが、ユネスコの委員会から、朝鮮半島出身者に労働を強いたことなどの説明が不十分だと、再三指摘されている。
産業遺産情報センターは、新宿区立余丁町小学校の裏、総務省第二庁舎別館に設置されている。大江戸線・若松河田駅の改札を出ると「世界遺産 明治日本の産業革命遺産 製鉄 製鋼 造船 石炭」と記した産業遺産情報センターのパネルがあり、出口への案内板にも産業遺産情報センターの表示があった。
東京都赤十字センターや東京女子医大病院、国立国際医療センター病院、国立健康・栄養研究所、国立感染症研究所など医療関係の施設が多い。山手線の内側ではあるが静観な住宅地の間に公共的施設が点在している。このような雰囲気の場所は往々にしてもとは軍用地であることが多いもので、調べてみると陸軍砲工学校、陸軍戸山学校、陸軍軍医学校など陸軍の学校用地であった。
産業遺産情報センターが設置されている総務省第二庁舎別館もまたもともとは陸軍の用地だったのであろう。
総務省統計局、統計博物館なども同じ建物内にある。
2023年4月3日にリニューアルオープンした統計博物館のHPには「どなたでも自由に観覧できますので、機会がありましたら、是非お立ち寄りください」とあり、別段、観覧の予約は必要ない様子だ。団体(おおむね10名以上)の場合は2週間前に電話連絡を下さいとただし書きがある。どうも団体の見学が重なってしまわないように予定の調整を必要としていることが推測される。小学校や中学校などの遠足の立ち寄り先になることもありそうな施設だ。
見学を終えてから、受付で単独見学の受け入れ人数を尋ねた。午前が3人、午後が3人という定数だった。それで足りるのですか?と重ねて聞くと、個人で見学に来る人はそんなに多いわけではないですからという返事で、たしかに私が出かけた日も、ガイド無しの個人見学者は私ひとりであった。
場内は撮影も録音もすべて禁止。荷物は無料のロッカーにすべて預ける。深紅の上着を着た受付の女性からパンフレット、アンケート用紙、メモ用の白紙1枚などを受け取り、場内へ入る。受付の女性が着ていたのと同じ深紅のジャケットを着たガイドの女性に案内されている大人4、5人のグループがいた。ほかにガードマン風の制服を着用した警備の人の姿もあった。スタッフの深紅のジャケットはなんとなく万国博覧会のコンパニオンを連想させたが、男性のスタッフも同じデザインの上着を着用していた。
展示は三つのゾーンに分かれている。
ゾーン1は明治産業遺産の概要と世界遺産指定までのプロセス。ゾーン2がメイン展示室で写真と映像資料で産業遺産の歴史的価値を示す展示、ゾーン3は資料室となっている。
ゾーン3へ足を踏み入れようとすると深紅のジャケットの男性スタッフが資料を読みたければ、テーブルと椅子の用意がありますよと教えてくれた。グループ見学者を案内しているガイドさんが「朝鮮人だけが豆がらを食べさせられたなんてことはありません」と説明しながら通り過ぎる。
ゾーン3の入口に長さ30センチ、幅25センチ程度、高さは20センチくらいの石炭の塊が展示されていた。黒いダイヤと呼ばれるとおり底光りする黒い塊だった。触れてはいけないという表示はなかったので、そっと触ってみた。すべすべした手触り、鉱物の冷たさが指先に伝わる。
ガイドさんが「戦争が終わったあと、中国人は帰国しましたが、朝鮮人は帰国しなかったんですよ」と言いながら通り過ぎる。
1945年当時、中国には蒋介石の中華民国があり米国が支援していたが、朝鮮半島は南北に分断され、北にも南にも対外的な交渉をする政府がまだ存在してないことはちゃんと説明しているのかしらと、ガイドさんに聞きたくなったが、黙っていることにした。
「明治日本の産業革命遺産」が世界遺産として登録される時、ユネスコは徴用された朝鮮人、中国人が強制労働に従事させられたことを含む「歴史全体」を表示する施設を作るという条件を付け、それを受けて設置されたのが産業遺産情報センターだった。
しかし、実際の展示は中国人、朝鮮人の強制労働についてはほとんど展示されていない。私のように歴史の光と影をどう展示しているのかを見たいという見学者は「招かざる客」にされていることをひしひしと感じた。
日本政府はユネスコへの後続措置報告書で「朝鮮人労働者に関して、日本が戦時中、労働力不足に陥っていた状況を指摘した上で「国家総動員法に基づく国民徴用令は全ての日本国民に適用された」と説明している(国家総動員法は1938年施行)。1945年まで朝鮮半島は日本の領土であり、朝鮮半島出身者も日本国民であるという前提だ。朝鮮人労働者の強制連行、強制労働を否定する動きは日本全国に広がり、「群馬の森」に設置された朝鮮人労働者慰霊碑の撤去が求められているほかに、記念碑などから「強制労働」の文字が削除された例も報告されている。
日本の近代化の過程で労働力不足が生じたのはいつ頃からだったのだろうか?という疑問を最初に持ったのは北海道朱鞠内のタコ部屋労働者の墓地をたずねた時だった(ダム・鉄道建設の犠牲者が眠る「笹の墓標」を訪ねて)。
日中戦争、太平洋戦争の末期に旧制中学校、女学校の生徒たちまで勤労奉仕という名で軍事工場の働き手となったことは親から聞かされていたが、「国家総動員法」の成立以前から、それよりもずっと早い時期に労働力不足に陥っていたのではないかという私のぼんやりとした疑問に答えてくれるような産業遺産情報センターであれば良いのだが、残念ながらそうした資料収集、研究援助の施設とはなっていない。
また産業文化情報センターを名乗るのならば、日本の民間研究者や地方自治体などが収集した資料などの情報を集め、ネットワーク化したうえで保存が難しくなったものについては、資料保存の援助をするなどの事業を積極的に展開しても良いと考えるのだが、現在のところ、それどころか、輝かしい産業化の影について知りたいと考える私などは敵として扱われかねない雰囲気だった。
日本政府は1965年の日韓条約で韓国との賠償問題は解決済みとしているが、65年日韓条約も日本の植民地支配時代の犠牲者への慰霊を禁じているわけではない。また日本が領土を拡張し植民地支配をした時代の政策研究が禁じられているわけでもない。
ゾーン3の資料室の書棚には、「在日朝鮮人関係資料集成」3巻、4巻(三一書房)、「朝鮮問題資料叢書」Ⅱ、Ⅲ、Ⅶ、(アジア問題研究所)、「戦時強制連行労務管理政策」Ⅰ(アジア問題研究所)、「戦時朝鮮人労務動員基礎資料集」(アジア問題研究所)など14冊ほどの関連の単行本が並んでいた。入口でもらった白紙にこれらの書物の名前をメモした。
そして、入口に並んでいたアクセスガイドマップ8種類をもらう。よくできたガイドマップだ。それらをリックに押し込んで産業遺産情報センターをあとにした。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください