後藤隆基(ごとう・りゅうき) 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター助教
1981年静岡県生まれ。立教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は近現代日本演劇・文学・文化。著書に『高安月郊研究――明治期京阪演劇の革新者』(晃洋書房、2018)、編著に『ロスト・イン・パンデミック――失われた演劇と新たな表現の地平』(春陽堂書店、2021)、『小劇場演劇とは何か』(ひつじ書房、2022)ほか。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
戦後大衆文化史を体現するレジェンドに聞く〈上〉
――ドラマ制作の現場はどんな様子だったのでしょう。
あの頃のテレビは月間残業200時間が当たり前だった。ブラック企業もいいところ、真っ黒(笑)。40日泊まり込んだ小道具さんもいました。家に帰る暇もない。局にはラジオの宿直用の小さな風呂がひとつだけあって、大道具さんたちが入ったあとにようやく僕が入れたんですが、くるぶしまで泥だらけでね。
――それでは入った気がしませんね。
辻 だから、僕が昼間、エレベーターに乗ると、みんな逃げるんです。臭いから(笑)。ラジオの人たちはきちんとネクタイを締めてスーツですが、僕は1年間、学生服で通しました。僕は針の糸も通せなくて、ポケットが破れても繕えないので、セロテープでくっつけてたんです。ボロボロな格好なので、アルバイトだと思われて、非常にバカにされましたね。
でも、戦前から映画で活躍していた佐分利信さんをテレビに引っ張り出したのは僕なんですよ。僕が演出した『バス通り裏』(1958~63年)がおもしろいと言ってたという話を聞きつけて、目白かどこかに行って、佐分利信さんに膝詰め談判で「出てくださいよ、テレビに」と。そういうこともありました。
――番組つくりのご苦労をうかがえますか。山ほどあるでしょうけれど。
辻 1960年代に各地の教育委員会で「刃物を持たない運動」ってのがありました。そんな風潮もあって、当時のNHKの会長が、子ども番組から暴力的な場面を追放しようとしていたんです。その頃、僕は手塚治虫先生の原作でドラマ『ふしぎな少年』(1961年)を演出していたんですが、番組がはじまる前に、手塚先生は「NHKだからあまりどぎつい場面は出せないでしょう」と非常に心配されていました。でも、その時の部長は「爆発だって全然かまいませんのでやってください」と答えてたんです。
――現場は鷹揚だった。
辻 ところが、その前の年、会長が「『月下の美剣士』というチャンバラのドラマを見たが、けしからん。どこの局がやったんだ!」と大層ご立腹だったんです。それ、NHKなんですよ(笑)。
――まさか自分の局の番組とは気づかなかった。
辻 会長はびっくり仰天して「剣を抜いちゃダメだ」と。でも、美剣士が剣を抜けないんじゃ話にならないので、突然柔道の名人になりまして(笑)。そうしたら会長が「人を転がすとは何事だ」とまた怒って、結局何もすることがなくなっちゃった。
――放送開始からわずか2カ月ほどで中止になったとか。
辻 原作の南條範夫さんは怒ってやめちゃうし、NHKが期待していた主役の加藤博司くんも大映に引き抜かれちゃった。
そんな時代ですから『ふしぎな少年』にもいろいろ文句が来ましてね。たとえば、ギャングが誘拐した女の子を脅すんですが、それはダメだと。「何をやってもかまいません」と言った部長が同じ口で、手塚先生に「あれはやめてください」なんて言うわけですよ。
手塚先生は滅多に愚痴をおっしゃらない方ですが、あのときだけは帰りに「話が違いますね、辻さん」と、しみじみおっしゃった。だから「すみません。それがNHKですので……」と申し上げたのを覚えています。
――どのように解決されたんですか。
辻 ギャングの親分は岸井明さんでしたが、ピストルを持たせちゃいけない。仕方がないので、大きな音がする宇宙船のおもちゃを女の子の前に出してね。岸井さんには「なるべく優しい声で話しかけて」と頼んで、おもちゃを使って時々大きな音を出したんです。これはうまくいきました。ピストルは出さなくても、それなりに女の子が怖がるような場面ができたと思います。