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想定外ではなかった東日本大震災/災害報道に必要な歴史の検証 11日にニコニコ生放送

隈本邦彦 via 朝日新聞「Journalism」5月号

隈本邦彦

 

◇明治三陸津波の遡上高は38・2メートルだった◇

 まず三陸地方各地を襲った大津波。巨大な防潮堤をも乗り越え町並みを次々と飲み込んでいくテレビの映像に、圧倒される思いを感じた人は多いだろう。

 しかしそれは「いまの人々が、この光景を初めて見た」だけに過ぎないのである。いまから115年前、同地方を襲った明治三陸津波(1896年)は、今回の津波に匹敵するほどの大規模なものだった。

 

 『最新版日本被害地震総覧』(宇佐美龍夫著、東京大学出版会)によると明治三陸津波を起こした地震のマグニチュードは8・2~8・3程度と推定されている。震源域が三陸沖に限られていたのでさすがに今回の地震よりやや規模は小さいが、日本近海で起きる地震としては歴史的な巨大地震だ。津波の高さは三陸地方一帯で3~20メートルに達し、特に津波が高くなりやすい湾形をした綾りょうりわん里湾(現在の大船渡市)では、標高38・2メートルの地点まで津波が駆け上がった。これは本州に残された津波の遡上高としては最大級である。

 このときの犠牲者数は約2万2千人。当時の日本の総人口は、いまの3分の1くらいだったのだから、その被害のすさまじさがわかる。津波警報は発令されない時代。通信手段も未発達で、夜間の出来事だったため、集落がほぼ全滅していたことが翌朝になって初めてわかるという事例さえあった。

 

◇被害地域に戻ってしまう住民/重い寺田寅彦の警告◇ 

 地理学者の山口弥一郎氏が、被災後の復興の様子を詳細に調べた著書『津浪と村』(1943年)によると、津波を生き延びた人たちの一部は当初高台に移り住んだが、その後、他の地域から移住してきた人たちがしだいに平地に住むようになり村は再興していった。そして高台に移住した人たちも、いちいち港に降りて漁に出るのは不便だというような理由で再び平地に戻ったケースもあった。ある村では「一生に一度来るか来ないかの津波を 恐れて漁師が丘に上がってしまうとは何事ぞ!」との意見もあったという。津波はまれにしか起きない現象であるため、その記憶を地域に伝承することは容易ではない。人々にとっては、日々の生活の維持の方が重要だ。その結果、37年後の昭和三陸津波(1933年、マグニチュード8・1)で、再び生命や財産を失うこととなってしまった。

 

 それから約80年。チリ地震津波(1960年)による被害はあったが、その被害は明治や昭和の三陸津波に比べれば小さかったため、長い間に、再び津波の浸水域内に人々の家が建ち始め、新たな町並みが出来上がってしまっていたのである。

拡大
 今回の大津波での釜石市の浸水域(日本地理学会作成)を、明治三陸津波の浸水域(釜石海上保安部作成)と重ねて比較したのが図1である。二つの津波の浸水域はかなり重なっている。今回の方が1~2割大きい程度だ。今回の大津波になぎ倒された建物の多くは、明治三陸津波の浸水域内に建てられていたもので、困ったことに警察署も消防署もその浸水域内に入っている。もちろん鉄筋コンクリートの高い建物なら一時的な避難場所となるが、津波が浸水した建物はその後の防災拠点には到底なり得ない。そもそも津波危険地域とわかっているところに人々が住み、町並みがあるということ自体が大きな問題だったのである。

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筆者

隈本邦彦

隈本邦彦(くまもと・くにひこ) 

江戸川大学メディアコミュニケーション学部教授・名古屋大学減災連携研究センター客員教授。1957 年福岡県生まれ。上智大学理工学部卒。80年、NHK入局。報道局特報部、社会部、科学文化部などを経て2008 年から現職。主な制作番組はNHKスペシャル「院内感染」、同「調査報告東海村臨界事故~緊迫の22 時間を追う」など。

※プロフィールは、論座に執筆した当時のものです