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政権選択の材料を提供できず”完敗”したテレビの選挙報道

水島宏明

 「日本は今、分かれ道に立っています」

 衆院選公示日のNHK「ニュースウォッチ9」の冒頭コメント。今回は国の進路を決める極めて重要な選挙だというメッセージだ。それから投票日までの12日間、何が報道され、何が報道されなかったのか。

 結果的に自民党圧勝に終わった年末の総選挙。59・32%という史上最低の投票率はメディアにも責任がある。離合集散を繰り返した政党の「政局」報道に終始し、争点を明らかにして「政策」の違いを伝えるという責務を果たせなかった。今回の選挙報道はジャーナリズムの敗北と言えるものではないのか。テレビ報道について公示から開票までを検証してみた。

当選確実になった候補者の名前の上に花をつける自民党の安倍晋三総裁(中)と石破茂幹事長(右)=2012年12月16日、東京・永田町

 まずニュース番組で多かったのが、相変わらずの「注目の選挙区」報道。テレビの選挙報道の定番だ。例えば菅直人元首相が出馬した東京18区、藤村修前官房長官が出馬した大阪7区、田中真紀子前文科相が出馬した新潟5区など。候補を追いかければ1年生記者でも作ることができる比較的安易な取材手法で、政策よりも「××チルドレン」「○○ガールズ」「刺客」などの人間関係をクローズアップした筋書きを強調し、選挙で問われるべき争点を矮小化する。

 ほかに多かったのが、党首の動きや発言を追ったニュース。公示後は、各党を公平に扱うという公職選挙法の縛りが強まるため、逆に党首の動きを追うだけでも無難に安直に放送できる。

 そんな中でテレビが意図的に忘却したのか失敗したのか、結果として欠けたのが「政策」報道だった。

 (1)どんな争点があり、問題点はどこか、現状を取材して問題提起する。

 (2)各政党がこれに関して持つ公約・政策を分かりやすく示す。

 (3)公約の違いをどう評価すべきか、政策や生活にどんな影響があるのか、プラスとマイナスは何か専門的に検証・解説する。

 政策報道で不可欠といえるこれらの要素がほとんど満たされなかった。

 難しかった事情は確かにある。過去最多の12政党が乱立し、紹介だけでも時間を食った。争点も景気対策、消費増税、原発、TPP、社会保障、地方分権などと多く、整理が難しかった。しかも各党の公約は玉虫色の言葉が多く明確ではない。ニュース番組によっては日替わりで各党党首にインタビューし、党首討論会を催すなど工夫していたが、限られた時間で主張を言わせるだけで終わった。前述の①~③の要素でいえば②だけの報道が多かった。それも言わせっ放しで分かりにくい。取材の手間暇がかかる①はごく少数。③はほぼ皆無という有り様だった。

 放送という時間が限られたメディアで多くの争点を整理して伝えるには、報道集団としての力量が必要だ。残念なことにテレビ番組の多くはその力を持ち合わせていなかった。

 加えて前後に大きなニュースが重なった。高速道トンネル崩落、連続不審死の容疑者自殺、東京・板橋の主婦殺害、サッカーのゴン中山引退、中村勘三郎死去、大震災の余震で津波警報、北朝鮮のミサイル発射、中国機の領空侵犯―それらに時間が割かれた。ニュースのたびに「かつてないほど重要な」「今後20年の日本の進路を決める」選挙だと前振りされながら、内実では軽視され無視された。夕方の民放ニュースでは全国放送枠で選挙に全く触れない日さえあった。選挙について何か報道するならマシともいえた。

 頭で大事な選挙と言い聞かせても、どう選べばよいのか不明で消化不良のまま投票日を迎えた有権者が大半だろう。もやもやしているうちに各メディアが「情勢調査」のニュースを流す。「自民党圧勝の勢い」「自公で三百議席超へ」などと公示直後から結果が予想される。「半数近い人が態度を決めていない」と申し訳程度に釈明されても、本番前に人々をシラけさせ参加意欲をそいだのは明らかだ。

争点を伝えられなかったニュース番組

 結果的に、争点を整理して政策の違いを伝えるという使命を果たせないままのテレビ報道が大半だったという事実は、記憶にとどめるべきだ。

 NHKは公示後、ニュースで争点に関して問題提起する報道を控えた。日本テレビは各党首インタビューを除いて全国放送枠で選挙の争点について詳しく報道しなかった。テレビ朝日「報道ステーション」、TBS「Nスタ」、フジテレビ「スーパーニュース」は個別の争点や各党の政策を意識して報道したが、継続性や内容には不満が残った。

 異彩を放ったのがフジの「とくダネ!」だった。消費増税、景気対策、年金、TPP、子育て支援、地方分権などに関し、現状にどんな問題があるのか、各党はどう主張しているのか、賛成派・反対派のコメンテーターを登場させ、日替わりで伝えた。TPP問題ではアメリカと自由貿易協定を締結した韓国社会の変化を伝え、年金問題でスウェーデン、子育て支援でフランスと海外の先例を取材し、それぞれの政策のプラス面とマイナス面を伝えていた。①~③の要素を満たすもので、争点を分かりやすく視聴者に伝えるという意識が明確に表れていた。同番組はワイドショーだがニュース番組を凌駕していた。

 このように一部に健闘した番組があったとはいえ、結果的に見落とされたのが少数者の声だ。米軍基地問題を抱える沖縄県民、長期避難を強いられた福島県民らの現状を選挙にからめて全国放送したのは、TBS「報道特集」などごく限られていた。

 こうしたなか私自身が注目していた争点が生活保護だ。自民党は保護費1割カットの具体的な政策を公約で掲げていた。他の党は「自立支援」「不正受給の防止」など抽象的な政策が多く、解説がないと一般人には違いが分からない。この分野を整理して報道したテレビは皆無で、半年前の熱気との落差を感じた。

 昨年5月から6月にかけて母親の生活保護受給でお笑い芸人が謝罪会見したのをきっかけに、民放各テレビは「生活保護バッシング」を繰り広げた。生活保護の諸問題を長年、取材・研究してきた私には見過ごせないものだった。芸人の事例は、不正受給という違法行為に該当しないことが最初から明確だったが、テレビ朝日の「ワイド!スクランブル」は「不正受給疑惑」として大きく報道した。報道したデータは間違いだらけだった。同局の「報道ステーションSUNDAY」も、不正受給の割合を大幅に誇張して報じた。どちらも訂正放送はなかった。

 実態を本格的に取材することなく「不正受給が多いと聞いています」といった街頭インタビューなどの「伝聞情報」を流し、「本当は働けるのに安易に受給している若者が多い」という伝聞を「事実」だとして伝えた。不正受給など制度のマイナスイメージばかり増幅させたのは他の局も同様だった。

 この間、多くの番組に登場したのが、財政論者の立場で生活保護緊縮の改革を唱える自民党の女性議員。元財務官僚である彼女の主張に沿った報道が続いた。生活保護に関しては、困窮した人が窓口に行っても申請手続きをさせてもらえず断られるケースが相次いでいる。こうした事例の相談と向き合い、生活保護の適用拡大を訴える弁護士ら実務者や当事者の声は、ほとんど報道に反映されなかった。

生活保護バッシングの「オトシマエ」は

 生活保護のテレビ報道を長く経験した立場で言うと、かつてない膨大な量の報道は異様だった。事実誤認が多かったほか、財政論の立場一辺倒で、それ以外の要因も大きいのに生活保護を財政赤字のシンボルとして扱った点や、必要とする受給者が制度から漏れている問題は伝えず不正受給だけを問題にして怒りを煽るように世論を誘導した点など、疑問が多かった。

 各テレビ局が特集し、キャスターやコメンテーターが「制度の見直しは急務」「選挙でも大きな争点になる」などと声高に叫んだため、選挙では争点として多角的に報道されるものだと考えていた。火をつけたなら、どう決着がつくか見届けるのが責務のはずだ。

 しかし予想は見事に裏切られた。筆者が見る限り、生活保護制度が今後どうあるべきかを選挙に関連して詳しく報道した番組は一つもない。生活保護制度見直しにおける各党の主張の違いを紹介することもなかった。前述の①~③のすべてが欠け、争点にさえしていない。一時期はやし立てても、選挙「前」になると沈黙する。「生活保護バッシング」の頃にテレビ局が提起した問題の「オトシマエ」はつけられていない。

 ところが選挙の結果、安倍政権誕生が決定したとたん、テレビは様々な政策の「争点」を再び報道するようになった。

 投票前にほとんど報じられなかった生活保護も、選挙後、自民党が公約した「保護費の1割削減」方針について各テレビ局が特集し、「新厚労相が生活保護の給付水準引き下げを明言」など、決定事項のように報道している。手のひらを返したような扱い方だ。

 ほかにも安倍政権が掲げる「金融緩和」路線がうまくいくのか、国債暴落の危険はないのか、原発の新規稼働を容認する路線で問題ないのか、批判的な視点も交えながら報道するようになった。自民党の政策は選挙「前」に分かっていたのに、選挙「後」に政策が確定したような段階になってからニュースに登場する。

 自公圧勝が伝えられた開票日の深夜、TBSが「乱!総選挙2012 ニッポンのよあけ」を放送した。荻上チキや萱野稔人、津田大介らの若手論客が、景気、雇用や年金、貧困など様々な「争点」を2時間にわたって議論した。ツイッター連動の生放送で視聴者側の意見も画面に流される。専門家同士が「それ違うでしょ?」などとやり合う一幕もあり、議論が白熱していた。争点報道として肝心な3つの要素のうち③の議論が展開されていた。放送されたのは投票行動が終わった「後」だ。案の定というべきか、画面上にこんなつぶやきが流れた。

 「選挙前にこういう番組をやってほしかった」

 選挙の「前」にテレビは争点をじっくり議論する場を提供したのか。つぶやきは問いかける。「政治家が入るとアピールばっかでまともな議論にならない」。

 確かに各政党に主張させても議論は深まらず一方通行になる。むしろ論客による批判的な検証や解説こそが求められる。

 「こういった選挙特番は選挙前にやってほしい。10時間くらいぶっ続けで」(「ニッポンのよあけ」へのつぶやきから)

 各局は、選挙前のニュース番組内の1時間ほどの党首討論で「伝えた気」になっていた。しかし争点の多さを考えれば、10時間でも話を聞きたいというのが視聴者の本音だろう。

 民主主義社会にあって、ジャーナリズムは国民の知る権利に奉仕する営みだ。事実を伝え、選択するための材料を国民に提供する。最も大事な選択は選挙だ。いよいよこれから選択するという時期にテレビは役割を停止していた。

3・11に通じる「前と後」の既視感

 3・11以降、テレビや新聞がジャーナリズムとしての公益的な役割を果たしているのかが問われ続けている。震災後初めてとなる選挙報道は、争点を分かりやすく整理して伝えることができなかった。報道として完敗したといえる無様さだ。あるいは意図して争点報道を避けたのかもしれない。一つの政策紹介で12の政党に20秒ずつ時間を割いても4分かかってしまう。争点も多く解説するのが難しいテーマばかり。それなら政策についての報道には力を注がずに、「注目の選挙区報道」でお茶を濁すしかないと。

 生活保護バッシングをみても、中途半端で未熟な報道の積み重ねが政策の方向性を決めてしまっている。選挙「前」に議論すべき争点が示されず、問題のありかが国民に伝えられることなく選挙は行われた。政策の変更がほぼ固まった「後」に「問題のありか」を報道する。

 本来、「前」にやらなければならないことに「後」になってから手をつける。そんな前と後の問題。私たちは少し前にも同じような話をしなかっただろうか。既視感が漂ってくる。

 「選挙」を「事故」に置き換えてみよう。大津波のリスクも、全電源喪失に関する安全指針の空白も、SPEEDIの利用も、安定ヨウ素剤の準備も、原発事故の「前」には問題を伝えず、「後」になって初めて気づいたように動き出す。原発事故の後、報道番組の制作者として原発問題を伝える当事者となった私は、何かあった「後」になって伝えるテレビの醜態を自覚し、自己嫌悪に陥った。

 原発事故で浮き彫りになったメディアの無責任さは、選挙報道でも変わらず、同じ流れが繰り返されている。その敗北感はどこまで共有されているのだろうか。「前」にどれだけ争点を伝えられたのかと。

 もし不十分だったなら、どこを工夫すれば良いのか。記者の力不足か、現行の公職選挙法による制限も影響しているのか。自己検証が必要だ。この点をしっかり省みないと、次の参院選で同じことが起きる。政党の顔ぶれも争点の多さもほぼ今回と同じ条件になるはずだ。

 その時に後悔しても「後」の祭りなのだ。

    ◇

水島宏明(みずしま・ひろあき)

ジャーナリスト・法政大学社会学部教授。1957年北海道生まれ。民放地方局、民放キー局でテレビ報道に携わり、海外特派員、ドキュメンタリー制作、解説キャスターなどを歴任。2012年4月から現職。主な番組に「原発爆発」「行くも地獄、戻るも地獄」など。主な著書に『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』(日本テレビ放送網)など。

本稿は朝日新聞の専門誌「Journalism」2月号より収録しています