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「一山百文」の歴史踏まえ 原発事故と東北を問い直す

寺島英弥(河北新報社編集委員)

 「東電との交渉には何度も立ち合ってきたが、自分を含め誰も、原子炉等規制法などは知らなかった」

 記事の末尾のこの一文を、衝撃とともに読んだ。短編小説のあまりに恐ろしい結末でもあるかのように。河北新報朝刊1面に2012年3月から連載されている「神話の果てに 東北から問う原子力」の第5部「原発のまち」の「欲望」と題された回。冒頭に紹介したコメントには、当事者である福島県漁連(いわき市)専務の強烈な悔恨の念が籠もる。

 国内の原発は、冷却用に大量の海水を使うため海岸に土地が求められ、沿岸の漁業補償が付きものになっていた。1966年、福島第一原発付近の海域約5・4ヘクタールの共同漁業権消滅の代償に、当時の9漁協が東京電力から1億円の補償金を得たのを手始めに、同県内の漁業者は震災前までに分かっているだけで総額約200億円を支払われてきたという。

 原発が稼働すると、補償の請求理由に事欠かなくなり、昔ながらの木造船はエンジン付きの船になり、漁具も新しくなった。「安全を求めるのではなく、金を求めるようになっていた」(相馬双葉漁協の組合員)という原発事故後の振り返りの言葉の後にどんでん返しが来る。

 「東電は昨年(注:11年)4月、福島県漁連(いわき市)にファクス1枚を送り、福島第一原発事故による低レベル汚染水の海洋放出に踏み切った。

 県漁連は『あまりに一方的』と抗議したが、原子炉等規制法によると、海洋放出に漁業者の了解は必要ない」

 河北新報には毎月1日と15日、「題号の由来」が1面題字下に載る。「白河以北一山百文」。戊辰戦争の勝者になった西軍人士から東北がそのように蔑まれたことへの反発と怒りを込めた命名が「河北」で、1897年1月17日の創刊号の巻頭社説は、創業者一力健治郎の檄文だった。

 訳せばこんなふうだ。「政治社会にあっては常に薩長人士の跳ちょう梁りょう跋ばっ扈こを傍観するのみで、(東北人は)いまだかつて政権に指を染めたことがない。いにしえの平泉の英雄や伊達政宗、会津城外に眠る戊辰戦争の壮士たちに対しても、恥じ入るばかりである。今の河北(東北)男子たるもの、なぜ奮起一番、天下の事を志さないのか」。

 冒頭の漁連幹部が吐いた慚ざん愧きの念も、東北の人間には「一山百文」の響きに重なってくる。

 今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」が好評だ。原発事故後の風評被害で、例えば修学旅行が10年度(841校)の25%までしか戻らぬ会津若松の人々の期待も分かろう。八重がいた旧会津藩の藩士と家族、約1万7千人が戊辰戦争の敗北後、流刑同然に移住させられた先が青森県下北半島の「斗南藩(県)」だった。火山灰土、冷たいヤマセでコメが実らず、冬は酷寒。大半の移住者は希望をなくして去り、広大な原野が残った。

 開拓農家たちの苦闘を経て、半島は70年代、新全国総合開発計画・むつ小川原工業基地開発の用地として狂乱的に土地を買われ、それが2度の石油ショックで再び「不毛の地」とされ、最後に国の巨額債務の穴埋めとして降ったのが核燃料サイクル基地。

 「時よ語れ 東北の20世紀」という連載取材で六ヶ所村を訪ねた折、地元の人から「六ヶ所村、泊は負けてねエ!」(1986年・放出倫監督)というルポ映画を見せられた。当時の電事連会長が現地視察で語った発言が映像でありのまま記録されていた。こんな言葉だった。「本当にこれは広い。こういう土地があるのは初めて見ました。よいところがありましたなあ」。そして、「ばかにするな」という字幕。「白河以北一山百文」の歴史は、百数十年を超えて原発事故の前史ともなって続いた。

旧原町支局の歴代記者は様々な問題を書き継いだ

 震災前に休止になったが、河北新報の旧原町支局(南相馬市)の歴代記者たちはそれぞれ4年の任期中、福島第一原発建設に始まる浜通りの原発立地と自治体をめぐる問題を書き継いだ。「迷路の24年 浪江・小高原発計画は今」(1992年)、「ふくしま原発25年」(1996年)、福島総局との「原発増設を問う 福島第一7、8号機と浪江、小高」(2001年)などの連載企画を通し、「近くに大きな工場ができるとか聞いた」という住民の当初の認識、反対運動、立地した町全体の原発依存、財政逼迫と原子炉増設要請など、発信と記録を重ねた。

 がんのため97年、84歳で亡くなるまで30年間、旧浪江町の農民仲間と共有地を買収から守る運動をし、東北電力の浪江・小高原発計画に反対を貫いた舛倉隆さん(元浪江町農業委員長、棚塩原発反対同盟委員長)の話もあった。それらの蓄積が、原発事故後の13年3月28日、東北電力の「浪江・小高原発断念へ」を伝えた河北新報の独自ダネにまでつながった。

 「一山百文」は今なお「東北から問う」ための視点であり続け、書き継がれた東北と原発の記録は11年3月以来の震災で「神話の果てに」などの新たな取材の源になっている。

 東北と原発の歴史を推し進めてきたのが、戦後自民党政権の政策だったことは言うまでもない。12年9月29日、東北学院大で筆者も参加したシンポジウム「原発事故と東北再生」で、政府の原発事故調査委の委員だった作家の柳田邦男さんは「高度経済成長を支えるコストの安い電力を企業に安定供給するため、安全に目をつぶり、原発を増設し、好景気を公約に選挙を勝ってきた」「検証も教訓もないところに事故は再発する」と指摘した。同じことを今、「アベノミクス」を掲げた安倍自民党政権が繰り返そうとしている。

 自らの責任による検証も教訓もいまだ何ら被災地・東北に示されてはいない。戦後政治の転換を語る資格があるのか。原発事故は終わらず、避難を強いられた住民の苦難は続く。その声を伝える仕事も終わらない。

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寺島英弥(てらしま・ひでや)

河北新報社編集委員。1957年生まれ。早稲田大学法学部卒。79年河北新報社入社。論説委員、編集局次長兼生活文化部長などを経て現職。著書に『シビック・ジャーナリズムの挑戦』(日本評論社)、『東日本大震災 希望の種をまく人びと』(明石書店)など。ブログ「余震の中で新聞を作る」。

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本稿は朝日新聞の専門誌「Journalism」6月号より収録しました