メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

体当たり取材で見えてきた 中国メディアの奥深い世界

近藤大介(講談社「週刊現代」編集次長)

 あれは忘れもしない、2011年3月11日夕刻のことだった。

 当時私は、講談社の中国現地法人会社である講談社(北京)文化有限公司という会社で、副総経理(副社長)を務めていた。

 この会社は、講談社グループの書籍・雑誌・漫画の中国大陸版権を主に扱う会社で、05年に北京に設立された。私は2代目の「現地代表」だった。

 この日の午後に日本で大地震が発生し、私は埼玉県に住む年老いた両親の安否が気になり、遠く北京から電話をかけまくったが、一向に繋がらなかった。

 その間にも、眼前にあるパソコンの新華社通信の速報は「日本沈没」などと報じ始めていた。

 その時、一本の電話がオフィスに鳴り、「近総(近藤副総経理の略称)、電話!」と中国人社員が叫んだ。

 もしかしたら埼玉の両親かもしれないと思い、私はあわてて受話器を掴んだ。

 電話をかけてきた相手は一気にこうまくしたてた。

 「ニーハオ好! 私は先日お会いした『経済観察報』編集委員の丁力です。日本に未曽有の危機が訪れている時に恐縮ですが、弊紙は日本に特派員がおらず、日本人としての率直なお気持ちを寄稿してもらえませんか。できれば今晩中に、文字数は……」

天安門事件がきっかけ、中国にのめり込む

 私は1989年春に大学を卒業し、講談社に入社した。新人の書店研修などを経て6月1日、写真週刊誌「FRIDAY」に配属になった。そこで初めて担当させられたのが、北京の天安門事件だった。人民解放軍の戦車が青年たちを蹂躙し、千名以上の死者を出した悲劇だ。

 担当といっても、北京へ派遣されたわけではなく、編集部で24時間CNNテレビを見ながら、主な出来事をデスクに報告するという役回りだった。

 当時の日本は、バブル経済の絶頂期で、私も学生時代にはご多分にもれず、遊びまくっていた。そんな私の目には、みすぼらしい格好をして、祖国の民主化のために命を捧げるという隣国の同世代のエリート青年たちの姿は、鮮烈に映った。

 なぜそこまでやるのか。中国では今、何が起きているのか─。

 以後、私は「チャイナ・ワールド」にどっぷりのめり込んでいった。

 その後、「週刊現代」「月刊現代」などと部署は替わったが、中国や北朝鮮といった東アジア情勢を一貫して追い続けた。その間、北京大学に1年間留学したり、02年と04年のいわゆる「小泉訪朝」では同行取材をしたりした。韓国の盧武鉉、李明博、朴槿恵大統領や台湾の李登輝、陳水扁、馬英九総統らに、就任前や退任後にインタビューもした。

北京駐在の時に試みた中国人への「同化」

 09年の春になって突然、「週刊現代」から北京への転勤を命じられた。

 講談社の当時の取締役に言われたのはたった一つ、「中国では絶対に取材活動をしないように」ということだった。

 「これまで君はジャーナリストだったが、これからはビジネスマンなのだから」。こうして同年7月、私は北京へ渡った。

 肩書きは「副総経理」だが、総経理(社長)は東京にいたので、私は現地代表だった。社員は、私以外は全員、中国人で、主な取引先は中国の出版社や文化公司である。当時もいまも、1万人ほどいる北京の日本人駐在員の95%くらいは、日本と変わらない生活を送っている。すなわち日本人専用マンションに住み、オフィスでは日本人社員や日本語の流暢な中国人に囲まれ、日本料理を食べ、日本式のカラオケに行き、休日には日本人仲間でゴルフに行き、日本のテレビを見たり日本語のフリーペーパーを読みながら暮らしている。

 だが私は、北京駐在をよい機会と思い、あえて中国人居住地区に住み、中国人への「同化」を試みた。

 目標にしたのは、昔よく記事にした北朝鮮の特殊工作員だった。彼らは北朝鮮国内で必死に「日本人になりすます」訓練に明け暮れた。同様に私も「中国人になりすます」努力をしたのだ。

早朝から深夜まで中国漬けの毎日

 それは具体的には、次のような日課だった。

 朝起きたら中国中央電視台のニュースをつける。屋台で油条(揚げパン)と豆漿(豆乳)を買い、まるでラグビーのタックルのようなラッシュの地下鉄とバスに乗り出勤。オフィスでの会議や文書はすべて中国語。昼になると、オフィスビルの地下にある、崩れかけたような職員食堂で、8元(当時のレートで約100円)のランチを食べる。午後は取引先の中国企業を訪問したり、来客を受けたりする。夜は「様々な中国人ビジネスマン」と中華料理を食べ、帰宅はいつも深夜だ。

 ある時、日本時代の記者仲間が北京へ出張に来て、お土産に1冊の本を置いていった。それは、拉致被害者の蓮池薫さんが綴った本だった。そこには、日本とはまったく常識の異なる地に暮らし、日本にとっての〝非常識〟を日々強要され、しかも愚痴をこぼす相手もいないという辛さが切々と書かれていた。私はその本を読みながら、思わず涙がこぼれてきた。蓮池さんが味わった苦しみとはとても比較にならないが、彼の言わんとすることが実感できたからだ。

中国の新聞や雑誌に片っ端から目を通す

 そんな私の寂しさを紛らわせてくれたのは、中国の新聞やニュース週刊誌だった。オフィス近くの「星巴克」(スターバックス)で「当日大杯」(本日のコーヒーLサイズ)を片手に、中国の新聞・雑誌に片っ端から目を通す時が、オアシスとも言える至福の時間となった。

 日本人は、中国の新聞というと、すぐに中国共産党機関紙の「人民日報」を思い浮かべるが、実際には今やお堅いものから柔らかいものまで千差万別の新聞が発行されている。

 雑誌も同様で、ニュース週刊誌だけで10誌以上が、毎週鎬しのぎを削っている。

 私は毎朝、10紙以上の朝刊を新聞スタンドで買い、すべてのニュース週刊誌を買って目を通した。

 新聞名を挙げれば、「新京報」「京華時報」「北京青年報」「北京晨報」「環球時報」「参考消息」「第一財経日報」「21世紀経済報道」「毎日経済新聞」「世界報」「世界新聞報」「国際先駆導報」「北京晩報」「法制晩報」、それに「人民日報」だ。

 これに土曜日の「経済観察報」「中国経営報」「華夏時報」「時代週報」「南方週末」「理財週報」「投資者報」が加わる。

 ニュース雑誌は、「看天下」「中国新聞週刊」「三聯生活週刊」「南風窓」「瞭望新聞週刊」「瞭望東方週刊」「南方人物週刊」「環球」「新週刊」「人物」「新世紀週刊」「新民週刊」「時代人物」「紅週刊」「財経」「中国改革」などである。

 ちなみに、自宅前の新聞スタンドにとって、私は最大の顧客だった。

 店主は「『人民日報』を一番前に並べろという当局の〝指導〟がまた来たが、買ってるのはアンタだけだ」「共産党の記念日に合わせてすべての新聞・雑誌の表紙を紅くするよう〝指導〟が入った」といった「耳より情報」を提供してくれた。

 中国では、いわゆるメディア業界と言われるテレビ局、ラジオ局、新聞社、雑誌社、出版社、映画会社などはすべて国有企業であり、民間でこれらを作ることは禁止されている。また、新聞・雑誌は「刊号」を、書籍は「書号」を取得しないと発行できない。しかも現在は、「刊号」の新規発行はほぼストップしている。

 憲法第35条には「中華人民共和国の公民は、言論、出版、集会、結社、デモ及び示威行動の自由を有する」と謳うたっているが、それはあくまでも建て前の話だ。

実は共通しているジャーナリズム精神

 それでもジャーナリズム精神というものは、実は中国人にも共通しているのだ。

 メディアを取り締まる中央官庁である国家新聞出版広播電影電視総局(広電総局)がおおやけに禁じているのは、「三禁」と呼ばれる「党・政府批判及び党・政府の方針と異なるもの」「性的欲求を煽るもの」「暴力行為を煽るもの」だけである。今の中国のジャーナリズムは、この「三禁」に触れさえしなければ、日本人が想像するほど不自由な世界ではない。

 それにはいくつかの理由がある。

 第一に、そもそも中国人記者は「一人ひとりが一個の竜」と自負するように、大変個性的なのである。特にジャーナリズムの世界に入ってくる若者たちの多くは、「一発当てるぞ!」と野心満々で、日本で言えば大新聞の番記者ではなく、週刊誌のスクープ記者に似ているのだ。

 第二に、20代、30代のジャーナリストの多くが、アメリカに留学し、ジャーナリズムの修士号を取って帰国しているため、万事アメリカ式なのである。

 つまり、個々の記事が署名記事で、記者は自分が書いた記事に対して、全面的に責任を負う。記事に誤りがあれば、即刻クビになる。そのため、記事は一般的に長めで、深く潜行取材したルポが多い。

 第三に、私は中国の新聞社や雑誌社の企画会議を傍聴して驚愕したが、編集部のシステムが驚くほど民主的なのだ。

 大学を出たばかりの新人記者でも、大ベテランの編集長やデスクと対等に議論をする。そして編集長を論破できれば、企画は通り、署名記事となる。

 私はそれまで「編集長は絶対的存在である」という日本のニュース雑誌の風土で育ってきたため、その違いは新鮮だった。考えてみれば、中国の多くの若いジャーナリストは、「今いる地位はキャリアを積むためのワンステップに過ぎない」と割り切っているので、多分に一匹狼的で、日本的な愛社精神や忠誠心は乏しいのだ。そのあたりも、アメリカのジャーナリズムの世界と似ている。

特に評価していた個性的な3紙

 そんな中で、私が特に評価していた新聞が3紙あった。

 一つは、北京で一番人気の日刊紙「新京報」だ。共産党機関紙の「光明日報」と、反骨の精神で知られる広東省の「南方日報」が合弁で03年に創刊し、今では首都・北京で不動の地位を築いている。

 毎日88ページも刷っている分厚い新聞で、得意とするのは社会部系のスクープと、書評や流行などの文化面だ。飲酒運転撲滅キャンペーン、渋滞解消のための政府幹部の公用車削減キャンペーン、大気汚染批判キャンペーン、毒食品撲滅キャンペーンなどなど、時に政府批判と思えることにも斬り込んでいく。また、毎週土曜日に出る10ページ近くにわたる書評は、北京のインテリの知的好奇心を十分満足させてくれる。

 二つ目の新聞は、「第一財経日報」という経済日刊紙だ。04年に北京青年報、上海広播電視台、広州日報の3社が合弁して作った。この新聞の経済記事はセンスがいい上に、数々のスクープを飛ばす。例えば、上海市で新たな増値税(付加価値税)の導入を検討しているとか、政府の不動産政策がまもなく変わるとかいうスクープ記事が次々に出る。

 しかもこの新聞の偉いところは、必ず関係者を直撃取材するのである。政府関係者は当然、はっきり答えないことが多いが、それでも記事の信憑性は増すというものだ。

 三番目は、01年に創刊された週刊新聞の「経済観察報」だ。この新聞は毎週土曜日に発行される60ページもある分厚い新聞で、「中国全土のインテリが週末に必ず目を通す」と言われる高級紙である。紙名の通り、経済関係の読み物が中心だが、社会報道と国際報道も充実していて、単なる報道でなく、思想を絡ませて論じるのが特長だ。

 例えば、10年夏に、同紙の社会部記者が、浙江省のある上場企業が地元の地方自治体から土地を不正に取得し、裏金を蓄えているというスクープ記事を飛ばし、上場企業のあり方に疑問を投げかけた。スクープ記事が出た後、その上場企業は、浙江省の公安(警察)当局に泣きついた。

 すると公安は、あろうことかその記事を書いた記者を、全国に指名手配するという挙に出たのだった。中国では全国に指名手配された犯人は、公安部のホームページで公開される。

 自分の顔を見て仰天したその記者は、新聞業界の監督官庁である新聞出版総署(13年3月に広電総局に統合された)に駆け込んだ。そして、「報道の自由」か「国有企業の利益」かという大論争に発展したのだった。
結局、全国5億人の「網民」(インターネット愛好者)が公安を一斉に批判したことで、公安が全面降伏した。

 浙江省の公安幹部が「経済観察報」本社を謝罪に訪れ、その記者は翌週、「普通の記者の普通でない100時間」と題した長文の1面トップ記事を書いた。

 この記事は、私が3年間の北京生活で読んだ無数の報道記事の中でも、記憶に残る記事の一つだ。

中国の新聞社に載せる原稿を必死に書く

 11年冬のことだった。その「経済観察報」で、とても興味深い日本人論を読んだ。それは当時の菅直人政権から不景気に苦しむ日本企業までを、「武士論」の観点から分析した長いコラムだった。

 中国の一般の新聞記事や雑誌記事は、日本と違って署名記事で、おまけに書いた記者のメールアドレスが付記されている。そこで私はその記事を書いた丁力氏に思い切って投書してみた。「自分は北京で勤務する日本の『元ジャーナリスト』ですが、中国人がこれほど奥深い日本評論を書くとは驚きでした」。そんな感想を正直に記すと、丁力氏からはていねいな返事が届いた。

 そうやって何度かメールでやり取りした後、「経済観察報」の本社に丁力氏を訪ねた。そこは、懐かしい「編集部のにおい」がした。人々は商談の企画書作りにではなく、締め切りの原稿作りに追われていた。壁には「今月の販売額」ではなく「今月のスクープ記事」が掲げられていた。

 彼は偶然にも私と同い年で、新華社、中央電視台の記者を経て、より自由な報道を求めて「経済観察報」で働き始めたとのことだった。

 そのまま丁氏から夕食に誘われ、我々は商談ではなく、国家論を深夜まで語り合った。それは私が北京へ来て1年半余りで、最も甘美な夜となった。

 それからまもなくして、「3・11」の悲劇が日本で起こり、私は丁力編集委員から、この原稿で冒頭に書いたように「経済観察報」への寄稿を依頼されたというわけだった。

 私はその日の晩、初めて中国の新聞社へ出す原稿を、必死に書いた。

 学生時代のこの季節に、同級生4人でレンタカーを借りて、1週間にわたって美しい東北を旅したこと。そこへ今回、日本にとって太平洋戦争以来の悲劇が訪れたこと。それまで歴史問題などで日本を非難していた近隣諸国が一斉に援助の手を差し伸べようとしてくれていること。そして日本は世界に対して卑下することなく、必ずや復興するとつづり、「春に東北に桜は咲かないかもしれないが、心の桜は咲き、世界に飛来していくだろう」と結んだ。

 数日後、「2011年春、日本に桜は咲かない」というタイトルの私のコラムが大きく掲載された。

 掲載日の数日後、丁氏から再び電話をもらった。

 「あなたの書いたコラムが、多くの中国人の涙を誘い、同時に勇気を与えている。次週も引き続き書いてほしい」

 以後、私は4週連続で、地震関連のコラムを書いた。福島原発事故が「天災人禍」(天災でありかつ人災)であること、菅直人政権の危機管理がいかに杜撰であるか、そして中国メディアの地震報道のユニークさについても記した。

中国テレビに「革命」をもたらした3・11取材

 中国は、3月11日以来、約100人の記者・カメラマンを日本に派遣し、5つのテレビチャンネルが24時間、事実上の日本報道専用チャンネルと化した。

 当時の北京の一般家庭では、中国国内の60チャンネルが見られた(現在は236チャンネルに拡大)。中国中央電視台が15チャンネル、北京電視台が11チャンネル、それに31の省・自治区・直轄市がそれぞれ、テレビ局を持っているからだ。

 ある局は、東北地方のコンビニにできている行列を映し出した。現地入りした中国人レポーターが、息せき切って走りながら語る。「見てください。日本人は未曽有の危機が起こっているというのに、ここからあんな向こうまで、約50メートルにもわたって行列を作っているのです。何と行儀のいい民族なのでしょうか」。

 また別のレポーターは、被災地となった小学校の体育館に来ていた。「驚くべきことに、日本では学校の体育館が住民の避難所となっています」。

 これには解説がいるだろう。08年5月に四川省.川で発生した大地震で、中国は8万7150人に上る死者・行方不明者を出した。この数は、東日本大震災の犠牲者の4倍以上だ。

 なぜ四川省の山岳地帯でこれほど多くの犠牲者を出したかと言えば、学校が倒壊し、多くの子供たちが犠牲になったからだった。中国では、学校というのは「居住者のいない建築物」なので、特に手抜き工事をするのである。当時は「豆腐渣工程」(おから工事)という言葉が流行語になったほどだった。

 その記憶がまだ鮮明な中、日本の地震では市民が学校に避難しているのを見て、中国人は驚愕したのだ。
他にも、東京電力の苦悩を伝えるのに、東京電力の会議室の廊下に置かれたゴミ箱を漁った中国人レポーターがいた。

 「見てください。5本、10本……、もう数えられません。これは日本で栄養ドリンク剤と呼ばれている飲料で、東京電力の社員たちは、日々これらを口にしながら、眠い目を擦って残業しているのです」

 この時の東日本大震災取材は、中国のテレビメディアに、二つの「革命」をもたらした。一つは、レポーターが現場で実況中継する「ワイドショー」の登場である。

 それまでの中国のテレビ番組は、たとえニュースであっても、記者が現場で取材したものを、いったん編集し直してから放映するのが基本だった。

 ところが日本の地震報道では、そんなことをしていては間に合わないので、日本の現場からの生中継のオンパレードとなった。これは後に、例えば13年1月に問題となった大気汚染の報道や、同年春に問題となった鳥インフルエンザの報道などでも応用され、定着するに至った。

 もう一つは、それまで国家機密だった中国の原発関連施設や官庁、研究所などに、テレビカメラが入ったことである。

 「世界一安全と思っていた日本でさえ福島原発事故が起こったのだから、わが国は大丈夫なのか」という不安が、中国人の間で巻き起こった。そうした国民のニーズに応えるために、温家宝首相の肝煎りで、国の原発政策をオープンにしたのだ。ちなみに、温家宝首相は「3・11地震」当時、「中国の原発建設を全面的に停止する」と華々しく宣言したが、翌年には再開し、いまでは世界最大の原発大国を目指している。

中国紙で連載開始、「没」は1回だけ

写真1 近藤大介氏が連載している週刊新聞「経済観察報」のコラム写真1 近藤大介氏が連載している週刊新聞「経済観察報」のコラム

 さて、私の話に戻れば、地震のコラムを契機に、「経済観察報」から隔週のペースで、「日本人の視点」で時事コラムを書いてほしいと依頼された。それは12年夏に私が日本へ帰国した後も途絶えることなく続き(写真1)、この6月初旬の号で51回目を迎えた。

 編集部からは「三禁に触れなければ何を書いてもよい」と言われていて、私が毎回5千字ほど、思いつくままに書いて送る。これまで没にされたのは、たった一度だけだ。それは、今年の4月に北朝鮮が恫喝外交をエスカレートさせた時、「狂気の金正恩体制は早晩崩壊するだろう」と書いたのだ。この時は新聞社から、「北朝鮮は朝鮮戦争以来の同盟国なので、ここまで過激な内容は勘弁してほしい」と泣きが入ったのだった。

 その他は、あの日中関係が最悪の事態に陥った12年秋でさえ、私のコラムにはストップがかからなかった。

中国メディアの懐の深さを実感した

 私は決して中国に媚びるコラムを書いてきたわけではない。日本がなぜ尖閣問題で妥協できないのかを、日本人の立場から論じたりした。

 考えてみれば、日本で言えば「日本経済新聞」の週末の長文コラム欄に、中国人が中国の立場を論じているようなものなのだ。そんな点は中国メディアの懐の深さを感じる。

 11年春から始まった私の新聞連載は、思わぬ波及効果をもたらした。

 例えば同年秋に、「看天下」という中国最大70万部を誇るニュース週刊誌を発行している会社の社長から、オフィスに電話がかかってきた。

 「今、広州から北京へ戻る飛行機の機内で、たまたまあなたの新聞コラムを読んで感動した。すぐに会いたい」

 せっかちな中国人経営者にはそれまで数多く接してきたので、二つ返事でOKした。その社長ともたちまち意気投合し、1ページの連載コラムが決まった。

 「主力読者である中国の大学生や20代向けに書いてほしい」と言われただけで、その他の条件はなかった。

 そのコラムも、この6月初旬で64回になって、いまも続いている(写真2)。

写真2 近藤大介氏が連載中のニュース週刊誌「看天下」のコラム写真2 近藤大介氏が連載中のニュース週刊誌「看天下」のコラム

 このコラムでも、原稿が没にされたことが二度だけあった。

 一度は、中国でも急速に店舗数を伸ばしているユニクロについて書いた時だ。私は柳井正会長兼社長に12年末にインタビューしたし、柳井氏の著書やインタビューにもほとんど目を通している。その上で、ユニクロがなぜかくも発展できたかを論じた。すると「一企業を誉めそやすのは、ニュース雑誌の作風に合わない」と言って突き返されたのだった。

 もう一回は、孟モンフェイ非について肯定的に書いた時だ。この男性は中国で最大の人気を誇る41歳のテレビ司会者で、日本で言えば全盛期の欽ちゃん(萩本欽一)に似たタイプだ。

 10年正月に始まった、彼が司会を務める「非フェイチャンウーラオ誠勿擾」(マジでないなら構わないで)という若者のお見合い番組が空前のヒットを飛ばし、この番組が放映される土曜日と日曜日のゴールデンタイムには、繁華街から人が消えるとまで言われた。私も若者たちがホンネで恋愛について語るこの番組の虜になり、放映している江蘇衛視の知人に頼んで、わざわざ番組収録時に客席に入れてもらったほどだった。

 ベストセラーになった孟非の自伝『随遇而安』(流れに任せる)を読むと、高卒でテレビ局に楽屋係として入り、あらゆる下積み生活を経ていまの栄光を勝ち取ったことが、淡々とした筆致で綴られている。そこで「孟非人気を支えているのは、中国人に欠如しがちな『思いやり』の精神である」と書いたところ、「一テレビ芸人を誉めそやすのはいかがなものか」とクレームがついたのだった。

 さて、11年秋には、5億人の会員を誇る中国最大のミニブログ「新シンランウェイボー浪微博」からも電話がかかってきて、「日本人として3番目のVIP会員に迎え入れたい」と言われた。そこで微博を開設したところ、あれよあれよという間にフォロワーが1万人を超えた。1万人を超す中国の若者に向けて、日々自由に語りかけられるというのは、光栄なことだ。

蒼井そらのつぶやきを1400万人が読む

 ちなみに日本人のトップは、元AV女優の蒼井そらで、フォロワー数は何と1400万人だ。

 安倍首相を知らなくても蒼井そらを知らない中国の若者はいない。

 私は日中国交正常化40周年を迎えた12年正月に、北京の日本大使館で懇意にしていた文化担当公使から、「40周年を盛り上げるよいアイデアはないか」と問われ、「蒼井そらを親善大使に抜擢してはどうですか」と提案した。

 何といっても、1400万人もの中国人青年が、毎日彼女の「お言葉」に耳を傾けているのだ。

 「蒼井そらが一言、『尖閣は日本の領土です』とつぶやけば、日本の勝ちでしょう」。公使はニヤッと笑ったまま無言だった。これは半分冗談だったが、10年前にはヨン様という大スターが日本人の韓国に対するイメージを一変させた前例もある。

 同じく、12年正月には、北京ラジオからも出演の声がかかった。

 毎週土曜日の夜に10分間、中国語に翻訳された「日本の良書」を紹介してほしいと頼まれ、日本に帰国するまで半年ほど続けた。

 紹介した日本の本は20冊を超える。

 ある週に、上手に訳された『徒然草』が書店に並んでいるのを見て、紹介した。その時は全244段中、最も有名な第11段、「神無月の頃」の中国語訳を朗読して聞かせた。

 すると終わった後、ラジオ局のスタッフたちが駆け寄ってきて言った。

 「本当に700年前の日本では、ミカンの木に柵をつけるとかつけないとかいった些細なことが議論になっていたのか?」

 私が無言でうなずくと、「信じられない。中国では山ごと誰が分捕ったかという戦争話しか残っていない」と答えたのだった。

 今度は私の方がビックリした。

中国で本を出版した、50紙以上が社説で言及

 私は昨年7月、3年間の勤務を終えて帰国し、「ビジネスマン」から晴れて「ジャーナリスト」に戻った。

 帰国の直前には、著名な作家で出版文化公司社長の張小波から「あなたのコラムを読んだ。すぐに会いたい」と電話をもらった(中国人からの電話はいつも突然やって来る)。

 90年代半ばに『ノーと言える中国』が300万部の大ベストセラーになり、日本版の出版を記念して来日し、石原慎太郎氏らと対談した有名人だ。私はその本が中国を席巻していた時、北京大学に留学中で、貪り読んだ覚えがあった。それから約15年を経て、彼は作家としても経営者としても成功を収めていた。

 そんな張小波に会ったのは帰国前日の夜だったが、やはりたちまち意気投合し、白酒を浴びるほど飲んだ後に、彼は言った。「中国はここがダメ、日本はここがダメという中日の批判の比較本を至急書いてくれ」。

 私は帰国後、彼の意向に沿って原稿を書き始めたが、9月になって尖閣国有化を巡って日中が一触即発の状態になった。不安になって北京の張小波に何度か電話をしたところ、「オレが出すと言ったら出す!」の一点張り。そこで昨年末に脱稿したら、『中国の欠点、日本の欠点』というタイトルで、本当に今年の3月に本が出版された。

 「この半年間、日本関係の本は中国で1冊も出なかったからこそ勝負をかけるんだ」。そう言って、彼は初版3万部も積んでくれた。実際、中国全土の50紙以上が社説で扱う話題作となった。

「上有政策、下有対策」 したたかな中国メディア

 だがその一方で、今年3月に習近平政権が発足して以降、メディアへの締めつけが強まっている。習近平主席が言論統制において手本とするのは「プーチンのロシア」である。

 例えば、この3月まで5年間にわたって新聞出版業界に君臨した柳斌傑・新聞出版総署長(大臣)は「新聞出版界の鄧小平」との異名を取った改革派だった。

 私が以前、柳署長本人に、「このニックネームを気に入っていますか?」と聞いたところ、満面の笑みを浮かべてこう答えたものだ。

 「他の業界は、国有企業が改革のアクセルをかけすぎて監督官庁がブレーキをかけているが、新聞出版業界だけは反対なんだ」

 そんな柳署長は今年3月、「新聞出版業界は今後とも不断の改革を続ける」という格調高い演説を行って退任した。

 だが、彼の後任者はいなかった。署長が改革にのめり込みすぎたせいか、新聞出版総署自体が事実上、広電総局に吸収合併されてしまったからである。

 今年正月に、「反骨報道」で知られる広州の週刊新聞「南方週末」が、法治政治を訴えた社説を、共産党宣伝部の命令で書き直させられた問題が、日本でも話題になった。

 私はその後ずっと、この新聞社の董事長(会長)と党書記に誰が就くかを注視していた。すると5月の末になって、広東省党委宣伝部の莫高義副部長が両職に就任した。この人事はある意味で、締めつけを強める党宣伝部の「勝利宣言」だったとも言える。

 ではそれで、今後中国メディアが沈黙するかというと、そうとも限らない。

 「上有政策、下有対策」(お上に政策あれば、下々に対策あり)である。

 2年前のジャスミン革命の時、中国当局は、革命の伝播を警戒して集会やデモを徹底的に取り締まったが、「ジャスミン革命報道」は大いに盛り上がった。

 中国メディアは常に、「擦辺球」(中国の国技である卓球用語で、卓球台のスレスレを狙う)を考えているのである。

 このように中国メディアは山あり谷ありで、それは中国社会を象徴していると言えるだろう。

 ただ、中国メディアの世界は、日本人が短絡的に見がちな、「共産党の宣伝機関」という一言ではくくれない、奥深い世界であることは確かだ。

 最後に、今後日本のメディアは、一般の中国人に向けた発信能力を磨くべきだと私は思っている。それは、単に自社の報道を中国語に訳すということにとどまらず、「中国人が理解しやすいような方法と表現」を工夫することが必要だ。

 日々、蒼井そらのつぶやきを読む中国人の数は、日本の巨大新聞の日本国内での発行部数より多いという現実を、重く受けとめるべきだろう。

    ◇

近藤大介(こんどう・だいすけ)

講談社「週刊現代」編集次長。1965年生まれ。東京大学教育学部卒業後、講談社に入社。95年から96年まで北京大学留学。2009年から12年まで講談社(北京)文化有限公司副社長。11年以降、中国最大の経済紙「経済観察報」と、中国最大のニュース週刊誌「看天下」にそれぞれ連載コラムを持つ。著書に『「中国模式」の衝撃 チャイニーズ・スタンダードを読み解く』(平凡社新書)、『対中戦略無益な戦争を回避するために』(講談社)など。

............................................

本稿は、朝日新聞が発行するメディア研究誌「Journalism」7号から収録しました。同号の特集は「中国報道を考える」です。本稿のほかにも、「〈元中国特派員座談会〉変わる中国と取材環境 習近平体制とどう向き合うか」、「中国の実像を追い求めて NHKスペシャル、格闘の20年」(角英夫)、「深刻な環境破壊が進む中国でねばり強く調査報道を行う人々」(吉岡桂子)など、中国報道の歴史や現在、今後の課題を考える論考を多数掲載しています。「Journalism」は、全国の書店、ASAで、注文によって販売しています。1冊700円、年間購読7700円(送料込み、朝日新聞出版03-5540-7793に直接申し込み)です。7月号はただいま発売中です。

電子版は、富士山マガジンサービスで年間購読が1200円(定価の86%オフ)でお読みいただけます。詳しくは、朝日新聞ジャーナリスト学校のサイトをご参照ください。