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居場所──存在の証明──自傷する彼女たちを撮り続けて

岡原功祐(写真家)

 2003年3月、大学を卒業した僕は、何とか写真家として身を立てようと淡い希望を抱いていた。そんな若者の夢が簡単に叶うわけもなく、毎日8時間のアルバイトに勤いそしんだ。

 半年後、自分の写真が初めてある月刊誌に掲載され、大学の恩師に見せに行くと、「これに載っても人は見ないわよ」と優しい口調で厳しく返された。有名企業に就職した同期と、「人の見ない」雑誌に一度写真を出しただけの自分を比べては落胆し、日に日に所在無さを強く感じるようになっていった。

 3回ほど海外取材をしたが、相変わらず所在無さを感じていた04年の秋、日本で何かを取材したいと考えていた。アイデアは浮かぶものの、自分の中で撮る理由が見つからなかった。そんな頃出会ったのが、大学の後輩のかおりだった。ある日、彼女が言った言葉が心に残った。

 「居場所がない」

 僕の中ではっきりしていなかったものが、全てこの言葉一つで形容されるのを感じた。僕が感じていた所在無さも、撮りたいと思ってきたこともこれだったのだと、初めて言葉として自分の中に落ちてきた。この言葉は僕に撮る理由を与えた。僕は居場所について撮りたい。

 そして「居場所がない」かおりが苦しんでいたのが、自傷行為だった。その取材を始めようと思うとかおりに伝えると、「応援してるよ」とだけ言ってくれた。被写体となる人が自発的でなければ、この取材は成り立たないような気がしていたので、かおりのことを撮りたいとは言わなかった。

 では、どうやって撮影させてくれる人たちと知り合うか。パソコンの画面をにらみながら考えた。実生活で知り合う機会などきっとない。正直、ネットでの人探しは「出会い系」のようで気が乗らなかった。それに、まだ「写真家」というよりは、「痛い夢追い人」という状況だったので、匿名性の強い世界で書き込んでも、信用してもらえるか不安だった。

 結局、ほかに浮かぶアイデアもなく、数カ月後、オンライン上の掲示板に書き込みをした。

 「自傷行為をしている方でドキュメンタリーを撮影させていただける方を募集しています」

アパートに駆けつけ救急車を呼んだ

 ナギちゃんと出会ったのは、取材を始めてから2年後の2月だった。それまでに2人の取材を続けていて、徐々に慣れてきてはいたが、初対面はいつも緊張する。ナギちゃんは、ミクシィというソーシャル・ネットワーキング・サービス・サイトの書き込みを見てメールをくれた。とても几帳面な文章で、真面目な印象を受けた。

前日、切ってしまったというナギちゃんの腕には包帯が巻かれていた拡大前日、切ってしまったというナギちゃんの腕には包帯が巻かれていた

 初めて会ったのは、都内の私鉄駅構内の喫茶店。緊張しているのか、声が震えていた。ナギちゃんに、どのような取材をしたいか正直に話した。

 まず、どうしてこの取材をしようと思ったのか。生活全てを見たいということ、きっとつらい時もそうでない時も撮るということ。顔にぼかしなどは入れず、出来上がった写真は雑誌や新聞、写真展、本で発表したいということ。それによって誹謗中傷があるかもしれないこと。何かあれば必死に守るつもりではいるが、守りきれる保証はないということ。ナギちゃんは震えた声で、「はい、大丈夫ですよ……」とだけ答えた。

 ナギちゃんは、福岡で生まれ育った。小学生の時に受けたいじめや、その後の学校生活でのストレスが原因で、高校時代にうつになったことがあったという。いったんは回復したものの、父親の借金で家族が一時バラバラになり、精神状態が悪化。親戚も巻き込んでの騒動になり、故郷を離れた。

昼食の後、薬を飲むナギちゃん。普段から1日50錠以上服用していた拡大昼食の後、薬を飲むナギちゃん。普段から1日50錠以上服用していた

 東京で就いた仕事は、クレーム対応のテレホンオペレーター。それが彼女をよりひどいうつ状態に追い込み、リストカットやオーバードーズ(OD、薬の過剰摂取)、さらには食べたものを戻すといった自傷行為をするようになっていった。

 撮影を始めて数カ月経ったある日、電話口に出た彼女の声は、まるで酔っ払っているように呂律が回っていなかった。

 「大丈夫? 何かあったの?」

 「うーん、大丈夫れすよ……でもちょっとODしちゃって……」

 うつがひどくなり、もう死にたいと思って抗うつ剤や睡眠薬などをオーバードーズしたのだという。呂律が回っていないのはそれが原因だった。いったい何錠飲んだのか聞くと、「270錠……くらいかなぁ……」。それまでの取材で100錠ほどなら聞いたことはあったが、270錠は初めてだった。

 驚いて、意識はしっかりしているのか尋ねると、「うーん、そろそろなんか……もうやばい感じが……しれますけろ……」と言って電話が切れた。すぐに自宅を飛び出し、ナギちゃんのアパートへ向かった。たった3駅が10駅分にも感じられる。到着したのは45分後だった。

 ドアをノックするが返事がない。呼び鈴を鳴らしても反応がない。ドアノブに手をかけると鍵が開いていた。取材のために泊まらせてもらったこともあったが、一人暮らしの女性の部屋に勝手に上がり込むのは何とも気まずかった。しかし今は緊急事態だ、と自分に言い聞かせてドアを開けた。

 部屋の中にナギちゃんがうずくまっている姿が見えた。一応「おじゃまします」と声に出して部屋に上がった。

自室のロフトの上で横になるナギちゃん拡大自室のロフトの上で横になるナギちゃん

 まだ意識はあるようだ。

 「いつ飲んだの?」

 「本当は昨日なんれす……意識なくなるようでなくならなくて……でも……苦しい……」

 「救急車呼ぶからね」

 「でも……病院に運ばれたら……お金……ないから……」

 たとえ保険がきいても、医療費はバカにならない。定職を持って働いている人なら問題なく払える額でも、当時のナギちゃんは、うつが原因で派遣の仕事をやめたばかりだった。金なら心配しなくていいと諭し、119番に電話をかけた。ナギちゃんはひたすら「すみません……すみません……」と、かすれた声で繰り返す。5分ほどでサイレンの音が聞こえてきた。

 救急車の中で、ナギちゃんは朦朧としながら、まだ新しい保険証が届いていないからと負担額を気にしていた。こんな時に心配しなくてもと思ったが、金銭的不安は、追い詰められた状態の人を更に追い詰める。

 「病院に着いたらご家族に連絡してもらって、それで保険証は早く届けてもらうことにしよう。お金は俺が払うから」

 そう言うとナギちゃんは力なくうなずき、目を閉じた。

彼女たちの存在は現代社会の陰の一端

 病院からの帰り道、僕は「取材倫理」について考えていた。取材相手に金銭の供与をしてはいけないという「掟」のようなことを聞いたことがあった。ここで病院代を払ったら「写真を撮るためにお金を払った」と言われるのだろうか。救急車を呼んだことが「撮るためのシチュエーションを作った」と言われるかもしれない。逆に、「困っている人がいたらカメラを置いて助けなくてはならない」という言葉も聞いたことがある。

 僕はお金を払うことに躊躇などなかったし、救急車を呼んで写真も撮った。やってはいけないと言われることも、やるべきだということも両方した。ナギちゃんは取材対象だったけれど、すでに友達でもあった。だからといって、ナギちゃんに会う時に首からかけたカメラを外したことはなかった。いったい何が「正しい」のか。そんなものは、状況によっていくらでも変わってしまうような気がした。

 数日後、ナギちゃんは無事に退院した。結局、都内に住んでいた妹がかけつけてくれ、新しい保険証も退院前には手元に届いた。支払いも問題なく済んだ。

 その3日後、喫茶店に現れたナギちゃんの手首には、退院後に切ってしまったという新しい傷が見えた。そんな状態でも、まずはハローワークで新しい仕事を探すという。仕事を見つけては調子を崩して辞め、また仕事を探す。楽ではない生活を必死に成り立たせようとしていた。そんな彼女を見ていると、「取材倫理」という言葉が表面的に思えてきて、僕はまた、目の前の彼女を同じように撮り続けた。

 ナギちゃんの取材を始めて1年以上が経った08年の春、米TIME誌のオンライン版で自傷のストーリーを扱ってもらえることになり、掲載確認のためナギちゃんに電話をかけた。

 「よかったですね! もちろん私は大丈夫です。このことがいろんな人に伝わったら私もうれしいです」

夜、フラフラとコンビニにでかけるミリ。通っている看護学校で気づかれないように、太ももを切って何とか衝動を抑えようとしていた拡大夜、フラフラとコンビニにでかけるミリ。通っている看護学校で気づかれないように、太ももを切って何とか衝動を抑えようとしていた

 自傷の写真を発表する際には、撮らせてもらっている人たちに必ず連絡するようにしていた。自ら取材対象として名乗りを上げてくれ、事前に説明していたとはいえ、実際に心ない誹謗中傷がないとは言いきれない。それでも手を挙げ続けてくれたのは、存在を否定されるような経験をしてきた人生の中で、自らを表現したいという欲求の表れだったのかもしれない。

 自傷行為の裏にあるのは、聞いたことはあっても身近に感じたことのないものだった。

 日本に存在する「恥の文化」が、それらが表に出ることを防いできたのだと思う。最終的に6人を取材する中で、東京から1時間のところに存在する貧困や、借金取りが毎日やってくる生活、僕が卒業した大学でもレイプがあることを知った。

 深い心の傷は彼女らの自尊心を奪ってしまった。うつやパニック障害のためまともに働くことができない状態に、自らの価値を認識できず、自分は役に立たない存在と思い込んでしまう。「価値がない(と思い込んでいる)自分」を傷つけることで、存在を肯定しようとする。しかしその傷を見ては、「してはいけないことをしてしまった」と自己嫌悪に陥る悪循環。一緒に過ごす中で見えてきた彼女たちのそんな生活は、簡単ではない。

 取材を進めるにつれ、彼女たちの存在は、日本が抱えている現代社会の陰の一端を示している、と強く感じるようになっていった。

撮った写真を全部返してほしい

 取材を断念せざるを得なかった人もいた。唯一の男性だったKさんで、病名を診断されたことが原因だった。

友人とカラオケをするさゆり拡大友人とカラオケをするさゆり

 「境界性人格障害」

 それまでは病名がつかないことで、自分が何者か分からずに苦しんでいた。しかし病名がつくと、彼は自分に失望してしまう。以降、不安や焦りなどをとがった言葉で僕にぶつけてくるようになった。何とか受け止めようとしたが、徐々に疲れてきてしまい、ある日言い返した。

 「僕はKさんの言うことをできるだけ受け止めたいと思うけれど、Kさんは配慮がなさすぎる。いくらKさんに余裕がなくても、これでは僕だってつらい」

 突然彼の口調が変わった。その後のメールには「ごめんなさい」の文字が並んでいた。おびえているようでもあった。傷つけてしまった気がして申し訳なかったが、僕もきつかった。数日後に届いたメールにはこう書かれていた。

 「岡原さんが撮った写真、全部返してくれませんか?」

 すぐに電話をかけた。病名がついてから、写真が自分以外の人間の手元にあることが怖くなってしまったという。こういう恐怖は増幅される。もし写真が相手を追い詰めてしまうなら、そんな写真に価値はない。1日悩んだが、僕は写真とネガを全て送ることにした。ショックだった。彼に信用されなかったことと、撮ったネガを手放さなくてはならないこと両方に。

摂食障害のため食欲はないが、何とかヨーグルトを食べようとするさゆり拡大摂食障害のため食欲はないが、何とかヨーグルトを食べようとするさゆり

 「ネガと写真をお送りします。これで僕の手元には何もありません。一つだけお願いがあります。ネガと写真はどのようにしていただいても結構です。ただ、公に使うようなことはしないでください。これはKさんの写真ですが、僕にとっても大切な写真です。その点だけ理解していただけるとありがたいです」

 ポストの手前でメールすると、丁寧なメールが返ってきた。

 「こんなに調子が悪くなるとは思いませんでした。お心遣い感謝します」

 「ネガは写真家にとって命だ」―どこかで聞いた言葉を思い出しながら、ネガと写真が入った封筒をポストに落とした。「ドサッ」。封筒がポストの底に当たる音が聞こえると、体中の力が抜けていくように感じた。写真が被写体より大切になることなんてきっとない。そうは思うものの、数週間は何もする気が起きずに、腑抜けのような状態で毎日を過ごした。

取材を通して居場所を見つけた

 取材を始めるまでには時間がかかった。途中で難しくなり、投げ出すことにならないか。傷を負った人たちに「あなたたちのことを知りたい」と言いに行くのだ。もし最後まで取材できずに終わってしまったら、協力してくれた人たちの時間も労力も無駄になってしまう。

 それに正直、日本で取材するのが怖かった。住んでいる場所で取材すれば、自分の生活に直接関わってくる。決心するまでに数カ月かかってしまった。

 取材を始めた当初は彼女たちとの付き合い方が分からなかった。体に残った傷は痛々しく、その体験もつらいものばかりだった。しかし、腫れ物に触るような態度では接したくないとも思い、どのように彼女たちを撮ればよいのか迷っていた。上から見下ろして、「ほら見ろ、こんなことが起こっているんだ」というような態度で写真を撮ることだけは、写真家として絶対にしたくなかった。

夜、人通りの少ない駅前でギターの弾き語りをする愛菜。引きこもりがちな生活の中で、歌うことが自己表現できる数少ない方法だった拡大夜、人通りの少ない駅前でギターの弾き語りをする愛菜。引きこもりがちな生活の中で、歌うことが自己表現できる数少ない方法だった

 一緒に過ごす時間が増えるにつれ、彼女たちは友達のような存在へと変わっていった。自然にその場にいられるようになり、それは写真の撮り方にも影響を与えた。彼女たちの存在をいかに写すかに集中できるようになっていった。100%同じ風景を見られないことは最初から分かっていた。いくら本人の感情を理解しようとしたところで、結局僕は他人でしかない。

 取材を通して彼女たちは特別な存在になっていったが、人生の全てをこの取材に費やせるわけでもない。僕は次の取材に向かい、彼女たちにとっても僕と過ごした時間は過去のものになっていく。お互いにとって通過点にしかなりえないことは、取材を始める前に正直に話していた。ただ、たとえ限られた取材期間だったとしても、寄り添うようにしていたかった。そうでなければ僕は写真を撮れないし、伝わる写真にはならない。

 取材を受けることで自分自身を見つめ直したい、と言ってくれた人もいたが、写真がよい影響を与えたかは正直分からない。撮影後に編集した写真は全て彼女たちに見せたが、それで病気が治ったわけではない。皆一様に、「私ってこんなふうに見えるんだ」と、新しい発見をしたような顔をしていた。

 取材中、落ち込むことも多々あった。とはいえ、始める前に不安に感じていたような、「途中でやめたいと思ってしまう」ことは不思議となかった。それはたぶん、彼女たちの取材そのものが、僕という写真家にとっての居場所になっていたからではないか、と感じている。

    ◇

岡原功祐(おかはら・こうすけ)

写真家。

1980 年東京都生まれ。早稲田大学教育学部卒。2001年旧ユーゴのコソボ訪問をきっかけに写真家に。人の居場所を主なテーマに南米、アフリカ、日本などで撮影を続けている。10 年、W. ユージン・スミス賞フェローシップなどを受賞。http://www.kosukeokahara.com/

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本論考は朝日新聞の専門誌『Journalism』8月号「特集 フォトジャーナリズムの現在」より収録しました

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